『1Q84』と大長編ドラえもん

 昨日、村上春樹の『1Q84』と三原弟平著『ベンヤミン精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』をほぼ同時に読み終えた。


 『1Q84』は、途中から「これは大長編ドラえもんの世界じゃないか」という思いがつきまとい始め、それはとうとう最後まで離れなかった。
 息子が小さい頃、何度か映画館に足を運び、結構はまった。漫画本もすべて買い揃えた。
 ドラえもんは短篇と長編でまるで違う。短篇は、いくつかのアイデアひみつ道具)とシチュエーションとキャラクターのどれか一つを使えばそれで話が一つ仕上がるが、長編の方はそうはいかない。物語の結構をつけるために、大掛かりな空間と時間の錯綜と確固たる観念(テーマ)が要る。つまり、パラレル・ワールドと冒険と友情の物語。
 『1Q84』を読みながら想起したのは「ドラえもん のび太の魔界大冒険」だった。のび太が「もしもボックス」で創りだした魔法の世界(それは地球外惑星にある)が現実の世界に侵入してくる。魔界の地球侵略。フィクションの世界とリアルな世界とのパラレル・ワールド。
 のび太ドラえもん、しずか、スネ夫ジャイアンの5人(4人と1匹)が勇士となって、魔界の王デマオンと戦う。デマオンを倒す唯一の方法は、その心臓に銀のダーツを撃ち込むことだ。


 『1Q84』には最後まで明かされない謎がいくつかある。(だから何人かの評者が続編の可能性を示唆している。私もその可能性はあると思う。あるとすれば、それはおそらく「BOOK4〈1月─3月〉」までの四部作になるのではないか。もちろん「BOOK2」で終わっているのだとしても、それで何の問題もない。)
 その謎の一つが、天吾が書いている小説の内容である。実はそれこそが、奇数章で進行する青豆の物語なのではないか。私はそう思ったのだ。
 青豆は、首都高速道路の緊急避難用非常階段(どこでもドア)を降りて、「1984年」の世界から「1Q84年」の世界に入っていった。その世界は(フェイクならぬ)フィクションの世界で、天吾が書いている小説(それは、さとえりが紡ぎ天吾が文章化した「空気さなぎ」に触発された作品で、いずれ『1Q84』という題名を与えられるはずだ)の中だった。
 そして、偶数章で進行する天吾の世界では、「空気さなぎ」というフィクションが現実世界に侵入し始めていた。その(「空気さなぎ」の)世界を印づけるのが黄色と緑の大小ふたつの月で、その「しるし」は青豆が(天吾によって)引き入れられたフィクションの世界にも出現する。
 「1Q84年」の世界で青豆は死ぬが(本当に死んだのかどうかは、例によって明らかにされない)、偶数章で進行する天吾の現実世界(ただし「空気さなぎ」というフィクションによって侵食された現実世界)で青豆の分身(たぶん分身ではなく実体)が出現する。
 そのような錯綜したかたちで、『1Q84』のパラレル・ワールドは相互接触する。
 「BOOK2」の第13章で、勇士(=青豆)と大魔王(=さとえりの父にして「さきがけ」の教祖)は、「1984年」と「1Q84年」の関係について語り合う。青豆が、それは「パラレル・ワールドのようなもの?」と問う。「君はどうやらサイエンス・フィクションを読みすぎているようだ」と男は笑う。


「いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもう‘どこ’にも存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」
「私たちはその時間性に‘入り込んで’しまった」
「そのとおり。我々はここに入り込んでしまった。あるいは時間性が我々の内側に入り込んでしまった。そしてわたしが理解する限り、ドアは一方にしか開かない。帰り道はない」
  (中略)
「あなたの言っていることは厳正な事実なのですか、それともただの仮説なのですか?」
「良い質問だ。しかしそのふたつを見分けるのは至難の業だ。ほら、古い唄の文句にあるだろう。Without your love, it's a honkey-tonk parade」、男はメロディーを小さく口ずさんだ。「君の愛がなければ、それはただの安物芝居に過ぎない。この唄は知っているかな?」
「『イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン』」
「そう、1984年も1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実とを隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない」
  (中略)
「いずれにせよ、‘何らかの意思’によって私はこの1Q84年の世界に運び込まれた」と青豆は言った。「私自身の意思ではないものによって」
「そのとおりだ。君の乗った列車はポイントを切り替えられたことによって、この世界に運び込まれてきた」


 ここで男が言う「列車」とはDNAの配列のことで、DNA配列の組み替えによって生み出されるのはクローン人間のことだ。そして、クローン人間とは小説家によって紡ぎ出された物語世界の登場人物のメタファーだ。
 小説家が物語を紡ぎ出すように、思想家は思想を、教祖は教義を紡ぎ出し、それらの観念体系が人を(クローン人間のごときフェイクの記憶をもった)まがい物にする。(時間性が我々の内側に入り込むように。)観念体系とは「システム」のことであり、その異名が「カルト」である。
 だから、諸悪の根源は小説家であり思想家であり教祖である。もっと根源的には、言語そのものが悪である。
 ただし、そこに愛があれば、世界を信じるという行為があれば、仮説は事実となる。
 ついでに書いておくと、「空気さなぎ」とは(愛なき生殖の媒体となる)空虚な子宮のことで、子宮と月には関係があって、子宮はヒステリー、月は狂気にそれぞれ関係があって……。
 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 いま引用した箇所で、『1Q84』は『1Q84』それ自体に言及している。
 自己言及的なオートポイエーシス的システムの急所がここに露呈している。
 だから青豆は、(銀のダーツならぬ)アイスピックのように研ぎ澄ました針を、(大魔王の心臓ならぬ)脳髄に刺し、男を「あちら側」に送り込む。
 その時、偶数章の世界では、天吾とふかえりが「お祓い」をする。ふかえりの「空気さなぎ」に向かって、天吾が射精する。


 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 いずれ書くかもしれないけれど、いまここで書いておきたかったことはそういうことではなかった。
 『1Q84』と『ベンヤミン精神分析』をほぼ同時に読み終えたこと、そしてこの同じ発行日付をもつ二つの書物が、まるで双子のように、一方が一方を照らし出していたこと。私はまずそのことにびっくりしたのだ。