人間やその意識は社会の要素ではない

 佐々木慎吾氏の「ルーマン『社会システム』」という文章(『現代哲学の名著』)を読んで、もう一つ印象に残ったのは、ルーマンがいう社会システムの構成要素は「コミュニケーション」で、「行為」や「人間」や「意識」ではないと書かれていたことだ。


《では、そうしたオートポイエーシス的社会システムの要素とは何か? これまで伝統的に考えられてきた「行為」ではなく、また「人間」でもなく、「コミュニケーション」である、とルーマンは考える。コミュニケーションがコミュニケーションを産出し、意味加工の回帰的に閉じたネットワークを実現する。その意味で、コミュニケートできるのはただコミュニケーションだけであると言える。それゆえ──人間はコミュニケーションではないのだから──人間はコミュニケートできないのである!(略)
 伝統的には、自己言及的な意味の産出は意識的主体の専管事項だと看做されており、さらにはそのような主体がすなわち世界の主体であると宣言されてきた。(略)
 しかしながら、こうした意識のオートポイエーシス的な操作、すなわち有意味な表象の産出が、社会的な意味を直接生み出すのではない。コミュニケーションは複数の「意識の流れ」を癒合させ、一つの流れに統合するような過程ではなく、むしろ決して消去することのできない我彼の差異を拠り所として進行する。(略)
「人間」やその意識は、社会の要素ではない。それは社会システムの「環境」に属しており、また逆に社会は意識にとっての必須の環境である。》(143-144頁)


 ここに書かれていることと、前回引いた文章の中で紹介されていたルーマンの言葉、「オートポイエーシス的システムの理論は生きているシステムにのみ当て嵌まるという限定を放棄し、心理的および社会的システムにまで適用されるように拡張されなくてはならない」、とを組み合わせると、次のようになる。


○生命のシステム、社会のシステム、意識(心理)のシステムという、「自己言及的な意味の産出」を担う三つの「オートポイエーシス的システム」がある。
○このうち、社会システムと意識システムとは、互いに互いの「環境」である。


 このようにまとめみると、いくつかの疑問がわいてくる。
 たとえば、拡張され、一般化された自己言及的なオートポイエーシス的システムの概念が適用される特定のシステムは、生命・社会・意識の三つに限定されるのか。たとえば、言語システムは? また、物質システムは?
 そして、生命と社会、生命と意識は、互いに互いの「環境」であるとはいえないのか。(そこに言語や物質が入ってくると、関係はもっと複雑になる。)