世界観にはそれを取り消すべき方法が組みこまれていなければならない

 ニクラス・ルーマンを読みたくなった。
 きっかけは、(前回書いたように)、『現代哲学の名著』に収められた文章(執筆者:佐々木慎吾)を読んだことにある。
 そこで印象に残ったことの一つは、ルーマンの社会システム論が、生命システムに対して案出された「オートポイエーシス(自己創出)」の概念を導入した「自己言及的なシステムの理論」であると書かれていたこと。
 以下、該当部分を抜き書きする。


《そもそも「オートポイエーシス」概念は、チリの神経生理学者H・R・マトゥラーナとF・J・ヴァレーラによる、「構成要素を自らのはたらきを通じて産出し、その産出過程と諸要素の相互作用を環境から区別された統一体として構成する」という生命の一般的な定式化のために提案されたものだ。(略)
 だがここで強調すべきは、ルーマンの意図が、生命システムに対して案出されたオートポイエーシス理論をそのまま社会に当て嵌める……といったものではないということだ。ルーマンの狙いはむしろ、オートポイエーシスを自己言及的なシステムの理論として一般化し、それを再び社会という特定のシステムに適用することであった。「オートポイエーシス的システムの理論は生きているシステムにのみ当て嵌まるという限定を放棄し、心理的および社会的システムにまで適用されるように拡張されなくてはならない」(八八○頁)。それは自ら環境との差異を構成するシステムであり、それゆえ根底にあるのはシステム/環境の差異である。》(142-143頁)


 ここを読んでいて、とても懐かしくなった。
 80年代の香り(ニューアカポストモダン記号論や差異性や嘘つきのクレタ人が飛び交っていた、あの80年代の香り)が、体感とともに蘇ってきたのだ。
 プラザ合意の翌年から二年間、私は勤め先を休職して、某大学院で経営組織論を勉強していた。
 どういう機会だったか覚えていないが、教授陣がずらっと並んだ席で、「自己組織化の理論に興味をもっている」と口にした記憶がある。
 ある教授から、「あれは難しくてよく解らないね」といった趣旨の発言があった。
 そのとき、私は、(どうせ、朝日出版社刊・中野幹隆編集の『エピステーメー』の特集号で二、三の論文を読み囓った程度の、また『現代思想』やなにかでウンベルト・マトゥラーナやフランシスコ・ヴァレラのことを通りすがりに聞き囓ったくらいの底の浅い知識でもって)、それほどでもない、と心の中で思っていた。(もしかしたら、そう口にしたかもしれない。)
 後になってわかったことだが、その教授は工学部から経済学部に移ってきた数理統計学の専門家で、私は、その多変量解析の授業を受けてまるで歯がたたなかった。
 その程度の数学の素養で、自己組織化をテーマに何か論文が書けると根拠もなく思いこんでいたのだ。
 結局、私は、ハーバード・サイモンのシステム論をほんの少し読み、C・I・バーナードの『経営者の役割』を(原書はさわりだけ、大半は翻訳書で)それなりに読みこんで、修論をしあげた。
 そこに書いたことを(うろ覚えながら)箇条書きにすると次のようになる。


1.協働組織というシステムを稼働させるのは、命題と命題を接続する(推論する)集合的で反復的な言語過程である。
2.それはあたかも「司法過程」のように、個別事例にルールを適用すること、個別事例に即してルールを解釈(改変)すること、個別事例から新しいルールを導き出すこと、そもそも何がルールであるかを確定する(製作する)こと、等々が複合した自己言及的な過程である。
3.組織における「経営者機能」(個別の経営「者」が果たすべき機能のことではない)とは、そのような「司法過程」を不断に継続させることである。「世界観にはその世界観自体を取り消すべき方法が組みこまれていなければならない」のだとしたら、「経営者」とは組織に組みこまれた「その(組織の)世界観自体を取り消すべき方法」を具現化した装置である。


 最後の「世界観にはその世界観自体を取り消すべき方法が組みこまれていなければならない」は、『知恵の樹』の訳者あとがきに紹介されているマトゥラーナ/ヴァレラの発言である(ちくま学芸文庫『知恵の樹』317頁)。
 そういえば、この訳本が文字の多い大型の絵本のようなかたちで朝日出版社から刊行された年に、私は修論の仕上げの作業に没頭していたのだった。