【哲学の問題】心身論、夏休みの哲学

 春は自我論、秋は時間論、冬は他者論。
 出来損ないの枕草子みたいだが、これは、以前書いた「夏休みのハードプロブレム」という雑文集に出てくる。出てくるというのも無責任な言い方だが、あいかわらず同じことを考えている(同じことしか考えていない)こと、そして、その同じところから一歩も先に進んでいないことに、ちょっとがっかりしている。
 春、秋、冬とくれば、夏はどうなるのだとなる。その答えが、「夏休みのハードプロブレム」。
 ハードプロブレム(正しくは「意識のハードプロブレム」)とは、「物質としての脳の情報処理過程に付随する意識やクオリアというのは、そもそも一体何なのか」「そしてこれら意識やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか」という問題のこと。ウィキペディアにそう書いてあった。
 平たくいえば「物質である脳に、いかにして心(意識、クオリア)が宿るのか」ということ。私は、このようにとらえられたハードプロブレムは、その提唱者デイヴィド・チャーマーズの主張とは違って、物理学の問題に還元されると考えている。
 とはすなわち、たとえ意識のハードプロブレムが将来、物理学者によって解明されることがあったとしても(それ自体は途方もなくすごいことだが)、「哲学の問題」としての心身論は、より蒸留されたかたちで生き残る、というか生き続ける(身をもって、生き続ける)、夏休みがめぐってくるたびごとに、そのつど初めてのこととして考えられ、語りだされる、ということだ。


     ※
 永井均さんの『翔太と猫のインサイトの夏休み──哲学的諸問題へのいざない』が文庫(ちくま学芸文庫)になった。
 私はこれまで、永井さんの本はほとんど読んできたが、そのうち、『〈私〉のメタフィジックス』という記念碑的作品は別格として、この『夏休み』が最高傑作だと思っている。
 文庫版あとがきに、永井さん自身がこう書いている。(ここまで「自画自賛」できるのは、文庫解説を書いている中島義道さんかニーチェくらいだと思っていた。)


《…ここで思い切って自画自賛してみたい。世界的に見ても、これほど面白い哲学入門書はほかにないと私は感じている。とりわけ第二章[たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとは]は、…読み返すたびごとに心を動かされる。自分がいまだに到達できない深みが、そこに予兆されているのを感じるからだ。
 入門書とか教科書とかいえば、ふつうは、何かすでにある問題とか学問体系へといざない、そこへ導入するための「門」であるだろう。だが、本書はそうではなく、その「門」がそのままその「門」を通って入って行くべき内容そのものである。これ以上の内容は、今のところまだない。教科書であるにもかかわらず、本書は、その中心的な点では、まったく独自の内容を扱っており、この本以上のことは、まだ誰によっても(もちろん私自身を含めて)考えられていないからだ。そして、たぶん、それだからこそ、本書は哲学への入門書の資格を持つのだと思う。》


 「門」がそのままその「門」を通って入って行くべき内容そのものである。──うまく説明できないけれども、先に書いた、物理学の問題としてのハードプロブレムが解明されたとしても、哲学の問題としての心身論は生き続ける、という事態と同じことが、ここに書かれている。
 そして、私が『哲学の問題(仮)』という本の中で取り上げたいと目論んでいるのは、そういう事態の解明である。


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 これまで、心身論や心脳問題について考えてきたことの一部を、いま思い出すままにメモしておく。


◎心脳問題をめぐる三つの論点(「夏休みのハードプロブレム」所収)


 第一の論点。心脳問題というときの「心」とはそもそも何か。
 意識[consciousness,awareness]、こころ[heart]、自己=自我[self]、私[I]、精神[mind]、魂[soul]、霊[spirit]、表象[representation]、情動[affection]、意志=意図[intention]、等々。──これらのうち、どの「心」を対象とするのか、しかもどのような定義=限定のもとでとり扱うのかによって、問題の様相はまったく異なってくること。
 あるいは、心と脳、心と身体、心と物、霊と肉、精神と物質、文化と自然、等々。これらは、それぞれが異なった「心」を問題としているのではないかということ。


 第二の論点。心と脳の「関係」とは何か。
 因果関係や対応関係のメタファーを超えた心と脳の関係、というときの「関係」とはそもそも何か。あるいは、粒子と波動、離散と連続、生と死、有限と無限、内と外、面と体、主観と客観、世界と自我、超越と内在、神化と受肉、等々。──これらの事柄をめぐる「関係」とは何か、仮にそれが意味的・論理的関係にほかならないのだとしても、では「意味的・論理的関係」とはいったい何かということ。


 第三の論点。「情報」とは何か。
 「情報」とは何か。それは、たとえていえば生者と死者、機械と幽霊、動物と人間、神と人間、等々の「関係」を問う言語そのもの、あるいはシステムそのものの起源と構造と機能と変容(進化)をめぐる学、第三の脳の学ともいうべき「神学」の問題に帰着するのではないか。(啓示と預言。一人称単数の「告白」と二人称単数の「祈り」。旧約=古い脳を包含する新約=新しい脳。)


 補遺。ある特殊なシステム(たとえば脳)があって、これに対応してある特殊な観測者(脳)がいる。この二つの要素からなる全体を「原システム」と名づけよう。そして、この原システムから観測者を除去して考えられたシステムを「抽象(あるいは一般)システム」と名づけることにしよう。
 抽象システムは、その「内部」に「測りがたい」深淵や超越や分裂や矛盾等々をかかえている。なぜなら、そこには観測者がいないから。──この抽象システムにおける不在の観測者は、時として「神」とか「意志」などと呼ばれることがあるが、実はそれは「外部」に仮構されたインターフェイスないしは「外部」へのパスウエイのこと、「鏡」とでも名づけるべきもののことをいっている。(たとえば、「鏡」と「自己」の二つの要素からなる擬似「原システム=情報システム」としての「精神」。)


◎「心脳問題をめぐるテーゼ(私家版)


 その1.意識は言語から「生産」される。
 その2.意識と物質はつながっている。
 その3.身体は意識を「表現」する。
 その4.使用価値と交換価値の分岐が心脳問題の起源である。