【哥の勉強】哥と身体

 8月19日付け毎日新聞の「今週の本棚」に掲載された、佐伯一麦著『ノルゲ』への三浦雅士の書評に、印象的な一節があった。


《『マルテの手記』はパリに滞在して「見ること」を学ぼうとする詩人の手記だが、それに倣えば、『ノルゲ』はオスロに滞在して「聴くこと」を学びながら自らを癒してゆく小説家の物語である。佐伯一麦の主人公の多くはクラシック音楽の愛好家だが、必ずしも現代音楽の愛好家ではない。それが滞在を経るにしたがって心を開いてゆく。音楽が時間芸術であるよりもはるかに空間芸術、空間の変容にかかわる芸術であることが示される。人は時間にではなくまず空間に耳を澄ますのだ。》


 最後の「音楽が時間芸術であるよりもはるかに空間芸術、空間の変容にかかわる芸術であることが示される。人は時間にではなくまず空間に耳を澄ますのだ」が、哥の体験に通じていると思った。
 哥は読むものではなく詠むものだ。かな文字で描かれた哥を、目で読みながら、朗詠する。同時に、朗詠する自分の声を、聴く。それらは、いずれも身体的な体験だ。(かな文字で描かれた哥を目で読むこと自体、一つの身体的運動だ。)哥が「空間の変容にかかわる」とは、哥の体験が身体感覚に根ざしていることに通じている。
 考えてみれば、それは哥だけのことではなくて、およそ芸術経験とはひとつの身体経験である、ということの一例にすぎないのかもしれない。


 尼ヶ崎彬氏の『縁の美学』のあとがきに、「芸術体験を、何事かを認識することとしてではなく自身がどこかに攫われることとして、言い換えれば身体的経験として記述すること」という一文がある。
 音楽を聞くとは、音楽的時間という非日常的時間を生きることだ。音楽家が作り出す時間に聴衆が参加し、同じ流れに乗り、身体的に時間を刻み直すことである。舞踏とはまず自分で踊ることであり、他人の踊りを見ている場合でも、舞踏家の作り出す時間にひきこまれ、それを楽しむ観客のノリがあるのではないか。
 美術でも同様に、絵画を見るとは、身体が何事かを経験することではないか。文学でも、小説を読む快感は、虚構の世界に没入し、虚構の人物に同一化すること、つまり、別の世界の別の人生を経験することだ。では、詩の場合はどうか。


《世界でも稀な短詩型である短歌や俳句では、時間的変化を経験する余裕などないのではないか。いや西欧の詩学が音韻などの構造的規定を論ずるのに対し、日本の歌論が縁語や掛詞などを語ってきたことを考えれば、むしろ和歌の方が時間的経験の設計に熱心であったように思われる。縁語や掛詞は、読者に連想や飛躍を促し、意識の運動をコントロールする仕掛けである。和歌を味わうとは、言葉の舞踏に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの旅を歩むことである。中世に流行した連歌は、何人かの共同作業によってこれを大規模に行うものであった。
 おそらく自然に対しても日本人は同じ態度を取ったのではないか。つまり、四季の推移の中を、その一部として、または対話者として、引き込まれ、乗せられてゆくこと。あるいは旅人として、その世界を回遊すること。》


 尼ヶ崎氏は、『日本的感性と短歌』(佐佐木幸綱編、短歌と日本人2、岩波書店)に収められた「簡潔と詠嘆──短歌という形式」で、物語と短歌の違いを「世界への没入」と「図式の受肉」という言葉で説明している。


《短歌は物語を形成するに至らない具体的事例の記述であり、私たちが没入や同一化できるほどの具体的細部をもたないけれども、私たち自身の経験を受肉させることによって強い実感をもたらすことができる。それは言葉の意味を概念や表象として把握し理解することではなく、事態の意味を生きることであり、ある意味で身体的に体験することである。「思い当たる」とは意味を帯びた事態、意味を生きた経験に思い当たることであり、「受肉」とは言葉が身体的に経験可能なものになるということである。》(52頁)