【哲学の問題】「私」とは何か、「私」とは誰か

 寝覚めの夢の中で『國男・哲郎・清』の企画を練った日の午後、こんどは白日夢の中で、とりあえず『哲学の問題』という仮のタイトルを与えたもうひとつ別の本のアイデアが浮かんだので、これも忘れないうちに書いておく。
 はじまりは、「私」とは何か、という問題。いや、それは「問題」というよりは問題感覚。私なりの言い方では「哲覚」的な感触。まだ、整理された言葉で「問題」として他人に伝えることのできない生のもの。身体的・生理的なドロドロした部分と、言葉や他人の存在がからまって訳がわからなくなった部分と、そうした身体や言葉や他者から蒸留され澄みきった部分とが渾然一体となったもの。
 ここで少し脱線すると、「私」とは何か、ということと、「私」とは誰か、ということとは、まったく別の問題の領域に属する。どう違うかというと、万葉集古今和歌集との違いくらい、かけ離れている。
 これはある本の受け売りだが、万葉の歌人は、心を客観的にとらえ、それがあるかないかを問題にした。別離の哀しみが自分の内に生成し、いつまでもそこに留まっているのを、当の自分が自覚しているといった具合だ。ところが、古今集になると、そうした物のごとき心ではなく、自分と外界、意識と自然といった区分が融解して区別がつかなくなった心がうたわれる。そこでは主客分離でいう「主」としての自己は消失している。心はそういう曖昧な「私」のうちに染みこみ、染めあげるものになっている。たしかそんなことだったと思うが、いま手元に出典(相良亨『こころ』、一語の辞典、三省堂)がないので、うろ覚え。
 ここに、古今和歌集新古今和歌集の違いをもちこむと面白くなる。大雑把にいうと、古今集の言葉が物(自然)と渾然一体だとすると、新古今では言葉の世界が物の世界から自律している。そこでは、「私」とは何か、という問題感覚が、万葉集の次元とは異なるところ(言語世界、もしくは物狂いの世界)で再び浮上する。このあたりのことも、尼ヶ崎彬『花鳥の使』からのうろ覚えの受け売りで、かなりあやしい。
 話を少し元に戻して、「私」とは誰か、という問題感覚をめぐって、意識と自然、とついさっき苦し紛れに書いた二分法を、昨日の私と今日の私、私と他人、といったかたちでとらえていくと、話がふくらんでいく。「考えているのは誰なのか、それが私だとして、その私とは誰のことなのか」という、この私自身の「哲覚」的な問題につながっていく。
 そこまで広げなくても、「私」とは誰か、という問題感覚と、「私」とは何か、という問題感覚は、その手触りがまったく違う。狂人と子供くらい違う。子供にとって、「私」というたしかな実質感をもたらすものが、問いの発生場所であったのに対して、狂人にとっては、その「私」が、問いに対する答えが到達する場所になる。
 「僕って何?」という問いをリアルに生きている子供には、「何」と問えるだけの実質は君にはまだない、あるとすれば、君の身体がその「何」なのだ、だから身体を鍛えなさい、と答えればいい。こうして、「私」とは何か、といういまだ「哲覚」的な次元から、身心問題、そして心身問題という、最初の「哲学の問題」へと移行する。
 かなり乱暴なことを書いているのは百も承知、二百も合点で、アイデアだけ書いておく。
 この第一の問題(心身問題)を解くためには、実は、第二の問題が解けなければいけない。というより、第一の問題はおのずから第二の問題へと移行する。それが、時間問題。同様にして、第三の問題である他者問題へ移行し、最後にようやく出発点にもどる。それが、意識問題、自我問題、いいかたはいろいろあるだろうが、要するに、「私」とは何かという問題。あるいは、「私」とは誰かという問題と切り離せなくなったそれ。
 こうして、出来合いの四つの哲学問題の意味、位置づけを明らかにしていく。それが『哲学の問題』という本のアイデアだった。その最後の問題を解くためには、さらに第五の問題へと移行しなければならないのではないか。そう直観は告げる。でも、それはやってみなければわからない。