『コーラ』のために(0)

 ここ二週間、風邪が治らない。治ったと思ったら、その日のうちにまた体調がおかしくなって、新しい風邪をしょいこむ。そんなことの繰り返しが、春先までつづくのではないかと、もうあきらめかけている。幸い熱は出ない。だから日々の生活をしのぐ最低限の気力と体力はあるのだが、まとまった文章を読んだり、込み入ったことを考えたり、ブログを書いたり、仕事をしたり、引っ越しの準備をしたりすることが億劫でたまらない。
 今日、ようやく少しだけ珈琲が飲めるようになった。風邪をひくと、日に5杯くらいは飲んでいる珈琲の味がとても不味くなる。ほんとうは3杯以上飲んではいけないと言われている。緑内障が進むから。ジョイスみたいになるのは格好いいようだが、たぶんとても不便だと思う。だから珈琲を飲まないのはほんとうはいいことなのだ。でも、煙草と珈琲なしでは何も考えられないし、まとまったことは何も書けない。
 まだあまり美味くはないが、一口、二口と啜っているうち、このブログのことを思いだした。先月のうちに終えるつもりだった「デカルト的二元論」の「連載」が中途半端なままで中断している。このことの決着をつけないうちに、また新しい「連載」を始めるのは気持ちの負担になるが、どこかで制約を課しておかないと、このまま春先までぐずぐずと崩れていってしまうような気がする。


     ※
 黒猫さんが『コーラ』という「アクチュアルでキュートな」Web評論誌(季刊)を創刊する。これを媒体にして、何かまとまったものを書いてみようかと思っている。春夏秋冬の季節ごとに一篇、3年つづければ一冊の本になる。新古今和歌集の部立(春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羈旅・恋・雑・神祇・釈教)に即して書ければ言うことはないが、所詮は思いつき、そもそも最初の一歩がうまく踏み出せるかどうか自信はない。で、草稿や備忘録や素材蒐集整理の作業をこのブログ上でやることにした。
 心脳問題をテーマにしたSF短編小説の連載、以前書いたものの解体修復再構築、等々、肝心の何を書くかでしばし逡巡した結果、いつもながらのやり方に落ち着いた。つまり、今たまたま読んでいる本、読みあぐねている本、読む時間がとれず負担になっている本を何冊か同時並行的に読み囓り、それらからの抜き書きをベースにして妄想をたくましくする。
 とりあえずは「歌論と心脳問題」もしくは「歌とクオリア」を仮のテーマにしておく。一回だけで終わるか、そこから発展して、歌と仏(神)と農と霊(貨幣)をめぐる日欧の精神史=経済史的並行関係の考察へと及ぶか。それはやってみなければわからない。そもそもやれるかどうかもわからない。第一、風邪がまだ治りきっていない。二週間ぶりにディスプレイに向かって言葉を拾っていると、喉がおかしくなり、また新たな風邪に襲われる予感がたちあがってくる。


 今たまたま読みかけている本(最近買った本)でテーマと関連しそうなもののリストをあげておく。これらがうまく一つに収斂し、かつて読み感銘を受けたいくつかの書物と響きあっていくようだと、この試みは成就するのだが。


堀田善衛『定家明月記私抄』『定家明月記私抄 続篇』(ちくま学芸文庫
◎尼ヶ崎彬『花鳥の使──歌の道の詩学Ⅰ』『縁の美学──歌の道の詩学Ⅱ』(勁草書房
◎T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫
◎綿抜豊昭『連歌とは何か』(講談社選書メチエ
松岡正剛『日本という方法──おもかげ・うつろいの文化』(NHKブックス)
永井均西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版)
◎ジェラルド・M・エーでルマン『脳は空より広いか──「私」という現象を考える』(草思社
◎ダン・ロイド『マインド・クエスト──意識のミステリー』(講談社
◎エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社
木村敏檜垣立哉『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社