存在しないものの美学──「新古今集」珍解

 終日、新潮社の『決定版三島由紀夫全集』31巻を眺めていた。
 『豊穣の海』を書き終えたら、藤原定家をモデルにした小説を書きたい。三島由紀夫はそう語っていたらしい。その三島由紀夫が定家や新古今集について書いた文章を探していて、「存在しないものの美学──「新古今集」珍解」を見つけた。
 短いものなので、全文を書き写しておく。(引用文中の“ ”は、原文では傍点で強調。)


     ※


 たとへば定家の一首、
  み渡せば花ももみぢもなかりけり
       浦の苫屋[とまや]の秋の夕ぐれ
 の歌は何で“もつて”ゐるかと考へるのに「なかりけり」であるところの花や紅葉[もみぢ]のおかげで“もつて”ゐるとしか考へやうがない。これを上の句と下の句の対照の美だと考へるのは浅墓な解釈だらう。むしろどちらが重点かといへば上の句である。「花ももみぢもなかりけり」といふのは純粋に言語の魔法であつて、現実の風景にはまさに荒涼たる灰色しかないのに、言語は存在しないものの表象にすらやはり存在を前提とするから、この荒涼たるべき歌に、否応なしに絢爛[けんらん]たる花や紅葉が出現してしまふのである。新古今集の醍醐味[だいごみ]がかかる言語のイロニイにあることを、定家ほどよく体現してゐた歌人はあるまい。万葉集の枕詞[まくらことば]の燦爛[さんらん]たる観念聯合[れんがふ]と、ちょっと似てゐるやうで、正に正反対なのが新古今集である。ここには喪失が荘厳[しやうごん]され、喪失が純粋言語の力によつてのみ蘇生せしめられ、回復される。
 同じ定家の、
  駒とめて袖打ちはらふかげもなし
       さののわたりの雪の夕暮
 も同じ美学の別のヴァリアシォン。
  帰るさの物と人の詠[なが]むらん
       待つ夜ながらの有明の月
 の一首では、喪失が逆の形であらはれて、空しい期待と希望、つまり何事も獲得しない状態が、言語の魔術をよびおこす。ここでも定家の手法は妙にシンメトリカルである。シンメトリカルであるけれども、それにとらはれてはならない。
 ここには二ヶの月がある。二ヶの有明の月である。一方の月は、「待つ夜ながら」に眺められてゐる。もう一方の月は「帰るさ」に眺められてゐる。前者の月は現実の月のやうであり、後者の月は空想上観念上仮定上の月のやうに思はれる。しかし、実は後者の月こそ現実の月であつて、前者の月は、正に目の前に見えてはゐるが、ありうべからざる異様な怪奇な月であり、信じようにも信じることのできぬ怖ろしい月、正にそれ故に、歌に歌はれねばならない月なのである。なぜならその月は喪失の歴然たる証拠物件として出現してゐるからだ。
 定家はどうしても月を、有明の月を、ここまで持つて来なければ承知しない。さうしなければ、言語表現の切実な要求に到達しないからである。そこまで来なければ、言語の純粋な能力が働き出さないのだ。
 その上、この歌は、気味のわるい二重構造を持つてゐる。これはかうも読まれる筈だ。「きぬぎぬの別れののちに、帰るさの人たちが、いかにも身にふさはしいものとして、この有明の月を眺めてゐることであらう。事後の疲労と、虚しさと、世界の空白に直面した思ひで、人々はこの白つぽい月をながめるのだ。“そこへ行くと私は幸福だ”。何もせずに、絶望も虚無感もなしに、ただ充実した待つことの感情のまま、この月を眺めることができるのだからなあ」


 新古今風の代表的な叙景歌二首。
  夕月夜潮みちくらし難波江[なにはえ]の
       あしの若葉をこゆるしらなみ(藤原秀能
  霞立つすゑの松山ほのぼのと
       浪にはなるるよこ雲の空(藤原家隆
 これは二首とも、自然の事物の定かならぬ動きをとらえたサイレント・フィルムだ。しかしこんなに人工的に精密に模様化された風景は、実はわれわれの内部の心象風景と大してちがひのないものになる。新古今の叙景歌には、風景といふ「物」は何もない。確乎とした手にふれる対象は何もない。言語は必ず、対象を滅却させるやうに、外部世界を融解させるやうに「現実」を腐蝕するやうにしか働かないのである。それなら、心理や感情がよく描かれてゐるかといふと、そんなものを描くことは目的の外にあつたし、そんなものの科学的に正確な叙述などには詩の使命はなかつた。それならこれらの叙景歌はどこに位置するか。それは人間の内部世界と外部世界の堺目のところに、あやふく浮遊し漂つてゐるといふほかはない。それは心象を映す鏡としての風景であり、風景を映す鏡としての心象ではあるけれど、何ら風景自体、心象自体ではないのである。それならさういふ異様に冷たい美的構図の本質は何だらうかと云へば、言葉でしかない。但し、抽象能力も捨て、肉感的な叫びも捨てたその言葉、これらの純粋言語の中には、人間の魂の一等明晰な形式があらはれてゐると、彼らは信じてゐたにちがひない。


  存在しないものの美学──「新古今集」珍解〈初出〉国文学 解釈と緩衝・昭和36年4月
                     〈初刊〉「美の襲撃」・講談社昭和36年11月