パースの宇宙論と九鬼周造の回帰的時間

 伊藤邦武著『パースの宇宙論』の巻末の注をめぐる話題をもう一つ。第四章「誕生の時」から。
 なお、これに先立つ箇所に、次の文章がでてくる。「彼の哲学には、われわれは視覚的な世界への囚われをいったん緩めることによって、ユークリッド幾何学以外の世界を経験することができると同時に、無限に連続する質の世界である第一性の世界、偶然性の世界、潜在性の宇宙をかいま見ることができるという考えがあった。パースの理論では、エキゾチックな香りが伝える嗅覚の世界や不思議な体感が伝える触覚の世界は、メビウスの環やクラインの壺に代表されるトポロジカルな空間を体験させることによって、実際に異次元の世界への通路をもたらす力をもつのである。」(182頁)


《この宇宙の時間が成立する以前の世界の想定──それはいうまでもなく、裏返していえば、この世界の「誕生」の論理への洞察である。「龍涎、麝香、安息香、薫香」「ヘンルーダやムルラノキやヒメライキョウの薬草」「オレンジ、レモン、ライム、ベルガモット、橙など、柑橘系の香り」「コーヒー、シナモン、樟脳、楠などの匂い」──互いに連続しあった嗅覚的性質の集合が作り出す世界は、それぞれがまた異なった空間や時間からなる、多元的な世界の各断片でもあるのであり、それはまさしく、「ちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じ」なのである。もろもろの異郷の香りは空間体験の可能性を大幅に拡張するばかりではなく、現実を超え出た時間の断片をたどっていく道標にもなりうるかもしれないのである。》(『パースの宇宙論』186-187頁)


 これに付された注に、伊藤氏は、「九鬼周造の次の文章には、おそらくはボードレールの影響のもとにであろうが、視覚以外の感覚、とくに嗅覚の世界が導いていく原初の偶然性と可能性の世界というパース的なモチーフが、まったく同じような創造論的パースペクティヴのもとで記されていて興味深い。」(252頁)と書き、九鬼周造の「音と匂──偶然性の音と可能性の匂」の一部を引いている。
 短い文章(文庫本で二頁足らず)なので、以下に、全文抜き書きする。


     ※
  音と匂──偶然性の音と可能性の匂(九鬼周造/菅野昭正編『九鬼周造随筆集』岩波文庫


 私は少年の時に夏の朝、鎌倉八幡宮の庭の蓮の花の開く音をきいたことがあった。秋の夕、玉川の河原で月見草の花の開く音に耳を傾けたこともあった。夢のような昔の夢のような思出[おもいで]でしかない。ほのかな音への憧憬は今の私からも去らない。私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとしている。「ピシャリ」とも「ポックリ」とも「ヒョッコリ」とも「ヒョット」とも聞こえる。「フット」と聞こえる時もある。「不図[ふと]」というのはそこから出たのかも知れない。場合によっては「スルリ」というような音にきこえることもある。偶然性は驚異をそそる。thrill というのも「スルリ」と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を「離接肢の一つが現実性へ‘す’るりと‘滑’ってくる‘推’移の‘ス’ピード」というようにス音の連続で表わしてみたこともある。
 匂[におい]も私のあくがれの一つだ。私は告白するが、青年時代にはほのかな白粉[おしろい]の匂に不可抗的な魅惑を感じた。巴里[パリ]にいた頃は女の香水ではゲルランのラール・ブルー(青い時)やランヴァンのケルク・フラール(若干の花)の匂が好きだった。匂が男性的だというので自分でもゲルランのブッケ・ド・フォーン(山羊神の花束)をチョッキの裏にふりかけていたこともあった。今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になってしめやかな日には庭の木犀[もくせい]の匂を書斎の窓で嗅[か]ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。


     ※
 坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』第4章「双子の微笑──「文学概論」と「日本詩の押韻」」から。九鬼周造の講義「文学概論」の最終章「12 時間(時間と文学)」の最終節「時間と存在」をめぐって。
 なお、坂部氏いわく、「この「文学概論」はたとえば、漱石の「文学論」とならんで、明治以後の日本の文学論のなかで、際立った思弁性と透徹した体系性という特色をもって、孤立に甘んじ、今なお孤高を持しているようにおもわれる。」(188頁)


《ここで、周造は、プルーストに超時間的なものないし回帰的時間の観念があることをいい、紅茶に浸したプチット・マドレーヌに幼年時代の記憶が蘇る有名なくだりを引きつつ、つぎのように述べる。
「匂ひとか味ひとか音とかいふものを嘗て経験したものが再び新たに経験される。「それらは現在と過去に同時に存在し、現実的でないが実在的であり、抽象的でないが観念的である。」さうすると事物の永遠の本質が解放される。また本当の我れが目覚める。さうして「時間の秩序から解放された一瞬間が、その一瞬間を感じさせるために時間の秩序から解放された人間を我々の中に再び造る。」芭蕉が「橘やいつの野中のほととぎす」と云つたのも同じ回帰的時間の有つ超時間性に関してであらう。橘の匂ひがする。嘗て同じ匂ひを嗅ぎながらほととぎすを聞いたことがあつた。あれはいつのことだつたらう。」
 ポンティニー講演以来われわれにはおなじみの、回帰的時間──垂直のエクスタシスの〈捉え返し〉、〈反復〉の時間──のテーマがふたたび繰り返される。つづくくだりで、周造が「文学の有つてゐる時間性の重複性」というのは、まさに、文学が、すぐれた意味で、こうした内包的時間の〈捉え返し〉の営為そのものであることをいうにほかならないだろう。そこで、最後の結論。
「我々は文学とは「存在の言語による表現自身」といふ主題に基いて、‘存在の領域’を一々考察し、最後に存在と同意義である時間の観念に到達して、時間の見地から文学を見た。そして文学とは「時間の言語的表現それ自身」といふ認識にたどり着いた。」》(『不在の歌』186-187頁)


 また、九鬼周造は「日本詩の押韻」で、ヴァレリーが詩を「言語の運[シャンス、偶然]の純粋な体系」であるとし、また押韻の有する「哲学的の美」を説いていることに触れ、次のように書いている。(なお、『偶然性の問題』では、ヴァレリーが「語と語との間の音韻上の一致」を「双子の微笑」にたとえたことを引いている。)以下、『不在の歌』(194-195頁)からの孫引き。


「いはゆる偶然に対して一種の哲学的驚異を感じ得ない者は、押韻の美を味得することは出来ないであらう。浮世の恋の不思議な運命に前世で一体であつた姿を想起しようとする形而上学的要求を有たない者は、押韻の本質を、その深みに於て、会得することは出来ないといつてもよい。押韻の遊戯は詩を自由芸術の自由性にまで高めると共に、人間存在の実存性を言語に付与し、邂逅の瞬間において離接肢の多義性に一義的決定を齎すものである。押韻は音響上の遊戯だから無価値だと断定するのは余りに浅い見方である。我々はむしろ祝詞宣命の時代における「言霊」の信仰を評価し得なくてはならない。富士谷御杖も「言霊の弁」に『言霊の妙用人の心の力の及びにあらぬ』ことを説き『すべて物二つうちあふはずみに自らなり出づるものは、かならず活きて不則の妙用をなすものなり』と云つてゐる。」


 坂部氏いわく、「マラルメヴァレリーに深く学んだ周造にあって、〈押韻〉の問題が、単なる詩や歌の問題、あるいは単に文学の問題ではなく、むしろ、よりひろく、文化の基底としての生の律動(はずみ)の問題、あるいは、共同の生の基底としての自己と他者のさらには宇宙の‘いのち’との共感や、共鳴の問題として、生きられ、捉えられ、あるいは捉え返されていたことはたしかであるようにわたくしにはおもわれる。」(『不在の歌』201頁)