ベルクソンと空海をつなぐ即身成仏論

 最近、また本の感想文が書けるようになった。
 いつまで続くかわからないけれども、まとまったものが書けたら、ここにアップすることにした。
 まとまったもののうち、少しは内容があるかもしれないものは、評価をつけて、「TRCブックポータル」というサイトに投稿することにした。




☆篠原資明『空海と日本思想』(岩波新書


 不思議な味わいをもった書物だ。大著をコンパクトに要約したチャート(海図)のようであり、いまだ書かれていない論考の骨格をなす命題を断定的に書きつけた覚書のようでもある。
 西洋思想の「基本系」(思想の基本的なありようにして変奏されつづける基本モチーフ)をプラトン哲学の「美/イデア/政治」にみいだし、これとの対比のもとで日本思想の「基本系」となる空海の「風雅/成仏/政治」をあぶりだす。この空海思想が西行慈円九鬼周造西脇順三郎草間彌生、等々によって生きられ、かつ変奏されてきたさまを描き、現代における変奏の可能性を探る。
 このような要約ではこの本の感触は伝えられない。実地に使ってみなければその価値や意義がわからない文法書か工具箱のような書物といえばいいか。
 その意味で応用可能性に富んでいるのが「風雅の四方位論」(4章)だ。水平線で結ばれる「道具」と「物語」(系譜)は小さなものと大きなものとの関係を、垂直線で結ばれる「建物」と「さび」は勢いと無化との関係をあらわす。ここでもまた(著者みずから桂離宮について試みているように)実地に使ってみなければこの理論的枠組みの真価はわからない。
 心敬へのたびたびの言及が本書の通奏低音をなしているのも示唆的だ。「‘あるなし間’から‘いまかつて間’への転回」(161頁)の議論がとりわけ興味深い。


「どのような存在も、宇宙の過去を抱懐した現在なのだ…。どのような存在も、宇宙の原初以来の〈かつて〉の先端に立つ。〈いま〉とは、その〈かつて〉を包む心なのだ。(略)未来というものがあるとすれば、この心の広がりにしか存在しない。」(178頁)


「〈かつて〉を抱懐する〈いま〉、それは、まさにこの世に存在するものすべてのありようにほかならない。」(179頁)


「風雅は、確かに、〈いま〉を新しむことに主眼を置く。しかし、それはあくまで〈かつて〉をさびしむことと一体なのである。芭蕉は「新しみは俳諧の花也」といいつつも、無常観を宗としつづけたのだし、西脇順三郎は、すでに触れたとおり、「新しい関係」の詩学を標榜しながらも、「私は「新しい関係」を発見したとき…(中略)…自己の存在自身の淋しさが押し寄せてくる」としるすのを忘れない。」(184頁)


 いまかつて間の立場から見いだされた新しみとさびしみという二つの極に関して、著者は最後に「さびしみつつ新しむ行為、すなわち成仏」(194頁)と定義する。同じ岩波新書で6年前に刊行された『ベルクソン』(129頁)に「いまかつて間の成仏論」と「ありなし間の昇天論」の対比といった議論があったことを思い出す。ベルクソン空海が即身成仏論を通じてつながっている!