もっとずっと単純で純粋な現実



パスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』(浅井晶子訳,早川書房


 読み終えるのに難渋した。いまなお読み終えた気がしない。
 血沸き肉躍るとはとても言えないのに、なぜ最後まで読み終えることができたのだろう。


「人は書かないかぎり、きちんと目覚めることはできない。」(124頁)


 そんな印象的な片言ならいくつでも拾い集めることができるのに、なぜだか読んだ気がしない。。
 結局この書物には何が書かれていたのだろう。この書物のいったいどこが「哲学小説」なのだろう。
 グレゴリウスが最後に思い出した『オデュッセイア』第二十二歌終盤にでてくる「リストロン」という言葉(434頁)の意味がわからない。


「いまこの瞬間に体験していることは──(略)──別の現実性を持っているのではないか? 単なる可能性とも、現実化した可能性ともまったく違う別の現実性。それはもっとずっと単純で純粋な現実であり、密度と圧倒的な必然性を持ち、断固として「現実的」であるなにかではないだろうか?」(44頁)


 いま引用を省略した個所──「走る列車の鈍い轟音、隣のテーブルのグラスが触れ合うかすかな音、調理場から漂う腐った脂の匂い、コックがたまに吸う煙草の煙」──にこそ「現実」の感触があり、小説という虚構世界の(そして言葉がもつ)旨味のようなものがあるはずなのだと思う。