技術と言語と美的創造活動の起源


アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』(荒木亨訳,ちくま学芸文庫


 暮れから年明けにかけて読み込んだ。なぜもっと早く、できれば翻訳書が刊行された四十年前に読んでおかなかったかと悔やまれる。もしかしたら生き方(進路)が変わっていたかもしれない。
 直立位(二足歩行)によって「自由」になった手と顔が、やがて視覚(図示表象)と聴覚(音声言語)にかかわる言語活動の二つの極をそれぞれ受けもつことになる。


「二つの極のあいだには、あのハレーション効果があって、身ぶりは言葉を翻訳し、言葉は図示表現を注解するのである。
 書字を特徴づける線形図示表現の段階では、手と顔という二つの領域の関係が新たな進化をみせる。空間で音声化され線形化される書き言葉は、時間のなかで音声化され線形化される口頭言語に完全に従属し、口頭−図示という二元論は消滅する。こうして人間は、言語学的に単一のしくみ、つまりこれもますます一筋の推論の糸に論理的に統一されてくる思考を表現し保存する手段を保有するにいたったのである。」(第六章「言語活動の表象」335-336頁)


 こうして「技術と言語活動との地質学的な関係」(26頁)を物語る第一部が終わる。「記憶とリズム」の副題を共有する第二部、そして第三部へ、人類の知的活動と美的創造活動の起源と実質と行く末をめぐる議論へと進む。


「象形行動は、言語活動と切り離すことができない。それは、現実を形象[フィギュール]によって口頭の表象や身ぶりの表象や物質化された表象[シンボル]のなかに反映するという、人間の同じ能力から出ている。もし言語活動が手を使う道具の出現と結びついているなら、象形化[フィギュラシヨン]は人間がそこからものをつくったり象形したりする共通の源と切り離せない。」(第十四章「形の言語」563頁)


「語や構文において口頭言語形象は、道具や手のみぶりと等価であって、物質やもろもろの関係の世界にたいする有効な手がかりをひとしく確保することを目指しているのにたいし、象形はそれとは別にリズムや価値の知覚という生物すべてに共通な生物学上の場に基づいているという違いはあるが、道具、言語活動、リズム的創造は同じ過程の連続した三つの側面である。」(同567頁)


 その叙述の力と理論的達成に圧倒された。魅力的な概念(「生理学的/技術的/社会的/象形的(美的)」の四つの表出の水準や、美学と技術と言語活動との関係、等々)が惜しげもなくちりばめられている。


 読み進めながら気になったことが二つ。いずれも類似した語彙をめぐるもので、その一は、「形象・姿」(フィギュール)や「象形化」(フィギュラシヨン)・「具象性」(フィギュラチフ)という語と「書字」(エクリチュール)、「しるし・表徴」(シーニュ)、「表象・象徴」(シンボル)、「像」(イマージュ)との関係。
 その二は、二足歩行に適応した人類の形態(114頁)をしめす際に使われた「形式」(フォルミュル)や「形」(フォルム)と「型」(タイプ)、「様式」(スティル?)との関係。
 後者について、松木武彦著『進化考古学の大冒険』(新潮選書)に出てきた、物の形の三段階の要素──「物理的な機能を担うフォーム=普遍かつ不変の要素(例:衣服)」と「社会的な機能を体現するスタイル=時代や地域によってさまざまな、特定の社会や文化と深く結びついたもの(例:背広、セーター、Tシャツなど)」と「モード=スタイルの形の規則をこわさない範囲での細部の形状やデザインの変化(例:背広の襟の幅、ボタンの数や位置、色など)」──をめぐる議論が参考になる。
 この松木本をはじめ昨年感銘を受けた『ヒューマン──なぜヒトは人間になれたのか』ともども、いずれ機会をみて再読したい。