『物質と記憶』(第17回)

物質と記憶』の独り読書会。
第三章の五節「一般観念と記憶力」と六節「観念連合」を読む。
類似=知覚と差異=記憶。
「意識をもつ自動人形」(175頁)によって演じられる生きられた類似と「自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在」(同)によって夢見られる差異。
それらが相互浸透し、結晶化と蒸発の二つの流れが交叉する中間的断面。
そこ(自然=運動の領域)から立ちあがる精神生活(思考の領域)の本質的な現象。
循環論法をすり抜ける生の実相と知性によるその模倣。すなわち有節言語の誕生。
物質と記憶』全体のハイライトをなすこのあたりのベルクソンの議論は、ほとんど抵抗も違和感もなく滑らかに頭に入ってくる。
前後の文脈を離れて取りだしても、それだけで存分に鑑賞玩味できるベルクソン節ともいうべき名調子が随所にちりばめられている。


たとえば五節から引くならば、「百合の白さは雪野原の白さではない。それらは雪や百合から切りはなされても、やはり百合の白さであり雪の白さである。それらが個別性を捨て去るのは、私たちがそれらに共通の名をあたえるため、類似を考慮するときだけだ」(177-178頁)。
「草食動物をひきつけるのは草一般である。力として感ぜられこうむられる…色や香だけが、その外的知覚の直接的所与である」(179頁)。
「水滴の中を動きまわるアミーバの意識がたぶんそうであるような萌芽的な意識を考えるとしよう。極微動物は同化しうるさまざまな有機物質の類似を感じても、差異を感ずることはあるまい」(180頁)。
「一般観念は表象されるまえに、…感ぜられ、こうむられるのである」(181頁)。
「一般観念は…互いに他方へと進む二つの流れの内に成立する、──たえず結晶して発音された語になろうとするか[高名な逆円錐と平面の図でいえば、底面ABから頂点Sの下向きの方向]、蒸発して記憶になろうとしているか[頂点Sから底面ABの上向きの方向]である」(182-183頁)。

一般化するためには類似を抽象せねばならないが、有効に類似をとり出すためには、すでに一般化することができねばならない、と私たちは言った。本当は、循環論法などありはしないのだ。精神がまず抽象するさい出発点とする類似は、意識的に一般化するとき到達する類似ではないからである。精神の出発点となるそれは、感ぜられ、生きられる類似、あるいはお望みとあれば、自動的に演ぜられる類似である。精神の帰り場所であるそれは、知的に認知され思考される類似である。そしてまさしくこの進行中に、悟性と記憶力の二重の努力によって、個体の知覚と類概念が構成される。──記憶力は自然発生的に抽象された類似に差別をつけ加え、悟性は類似による習慣から明晰な一般性の観念をとり出すのである。この一般性の観念は、元来は、多様な状況における態度の同一性についての私たちの意識にすぎなかった。それは運動の領域から思考の領域へと遡る習慣そのものであった。しかしこうして習慣によって機械的に輪郭を示された類から、私たちはこの操作そのものについて成しとげられる反省の努力によって、類の一般観念へと移ったのである。で、いったんこの観念が構成されると、私たちはこんどは意図的に、無数の一般的概念を構築したのだ。この構築の細部にわたって、知性の後を追うことはここでは必要でない。ただ悟性は自然の仕事をまね、自分もまた、こんどは人為的な運動機構を組み立てることによって、無限に多様な個別的対象にたいし、有限数の反応をさせるとがけ言っておこう。これらの機構の総体が、有節言語なのである。(181頁)。

あるいは六節から引くと、「私たちは類似から類似した諸対象へと進みながら、類似というこの共通の布地の上に、個々の差異の多様性を刺繍するのである。しかもまた私たちは、全体から部分へと解体作業によって進むものであり…。[観念]連合は、したがって、原始事実ではない。分解こそ私たちの出発点であり、すべての記憶が他の記憶を参加させようとする傾向をもつことは、知覚の未だ分かたれていない統一へ精神がおのずから復帰するということから説明のつくものである」(186頁)。
「私たちは、類似による連合と近接による連合を、その源泉そのものにおいて、またほとんど渾然一体をなした姿で──もちろんすこしも思考されているのではなく演ぜられ生きられているのだが──ここにとらえているわけである。これは私たちの精神生活の偶然的形態ではない」(188頁)。


第一章四節「イマージュの選択」を読んでいた頃のあの陶酔(フィロソフィカル・ハイ)が甦ってきた。
一気読みへの内圧が高まってくる。
しかし、今日のところは集中力が切れてそれは不発もしくは予感のままにとどまってしまった。
この内圧、予感を大切に持続させること。