堀江敏幸の「時制感覚」

昨日、堀江敏幸の文章が「複雑で鋭敏な時制感覚」によって屈折していると書いたことについて。
あるいは、堀江敏幸の「特異な時制感覚」といいうるものがあるとして、はたしてその実質はなにかをめぐって。
私が念頭においていたのは、過去のある時点で撮られた写真を今この場で見ること(「熊の敷石」「城址にて」)、あるいは今この場に鋭く立ちあがった身体の痛みが過去のそして未来の匿名の時点をリアルに想起させ予感させること(「熊の敷石」)、たとえばそのような経験のうちに言語以前のものとして埋め込まれている時間感覚のことだった。
より具体的には、点の過去・線の過去などと説明される複合過去と半過去、さらに単純過去、大過去、前過去、あるいはラカンによって特異な意味づけがなされた前未来といったフランス語の文法における時制のことだった。
これを作品に即していうならば、「熊の敷石」には今まさに進行しつつある現在と、その現在に近接する過去や遠い過去や語りの中にしか存在しない歴史的過去、そしてすでに到来しもしかするとあらかじめ完了している未来、さらに加えると堀江敏幸がこの作品を書いている(作品内世界にとっての)未来といった複数の時制がきりひらく時空が重層的に設えられている。
あるいは『雪沼とその周辺』の冒頭におかれた「スタンス・ドット」には、よりシンプルなかたちではあれ完了した未来のある時点から回顧された現在、過去のうちに氷結した現在、さらにはありえたかもしれない現在といったニュアンスの異なる直説法時制がやはり混在しているのである。
これらのことを詳細に分析しそのニュアンスを味わいつくすためには、川上弘美さんが試みていたように個々のセンテンスをとりあげて、時制(tempus)のみならず法(modus)、相(aspect)または態(voice)といった文法的概念にのっとって微細な表現の差異を腑分けし吟味していくことが必要になるだろう。
だが、今はその作業に没頭するだけの余裕と知見をもちあわせていないので他日を期すことにして、ここでは二、三の気になっていることについて(素材のみ)書きとどめてこれもまた他日の考察に委ねることにする。


【アオリスト】
ある人いわく「ギリシャ語の未完了過去形はフランス語の半過去に、アオリストは単純過去に似ている」。
ギリシャ語の過去時制に「未完了過去」と「アオリスト」の二つがある(らしい)。
後者は「不定過去」とか「無限定過去」とか訳されていて、過去に起きたただ一度の出来事の記述やこれから起こることが確実な出来事の預言として用いられる時制である(らしい)。
現在に深く影響する過去の決定的な出来事を表現するもので、たとえば「言葉は神であった」「言葉は神である」のいずれでも訳することができ、未来の出来事としても訳することができる(らしい)。
たとえば「ムーミンパパのバイブル研」の「原書構文解析」から「ヨハネによる福音書序文」の頁をたどっていくと、『ヨハネ福音書』第1章3節をめぐって次のように書いてあるのが目にとまった。
ちなみに同福音書第1章冒頭の3節の日本語訳は次の通り(新改訳聖書刊行会、括弧は引用者による)。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)
「この方[言葉]は、初めに神とともにおられた。」(2節)
「すべてのものは、この方[言葉]によって造られた[成った]。造られた[成った]もので、この方[言葉]によらずにできたものは一つもない。」(3節)

 3節は簡潔に天地創造の物語を表現していますが、主語は「(神と共にある)言葉」になっています。「芽生えさせよ」とか「群がれ」という神様の言葉によって万物が出来たことを言い表しています。新共同訳では「成った」と訳されていますが、これも「存在」の概念が含まれていると考えてよいでしょう。「成った」("egeneto")はアオリスト形ですから、この場合は過去にスポット的に起こったという事をさします。時々起こった「啓示」や「預言」も、言葉によるスポット的な神様の意志の伝達でした。一方で、「造られた」というのは完了形ですから、創造された行為の結果が現在に及んでいる事を意味します。(英語の過去完了形とはアスペクトが違います。)
 1節と2節で「始めに」という言葉を2回繰り返して用いていますが、フォーカスは現在に有るとみていいでしょう。神様の業は言葉を以て成されてきた。今もそうです。また、万物の全てがその言葉によって現れた。言葉によらずに現れたものはなかった。いまだに例外はない、という微妙で繊細なニュアンスが浮かびます。また4節以降の準備として「創造のはじめから今に至るまでの、連綿とした神の働きの形象としての言葉」ということを語っているのだと思います。

また「Pastor Nakao's Home Page」の「礼拝説教集」から2001年9月9日のメッセージをたどると、次のように記されている。

 ヨハネ3:3に「すべてのものは、この方によって造られた。」と言われている「造られた」という言葉は「アオリスト、不定過去形」といって「いつかどこかで存在をはじめた」という意味がありますが、「初めに、ことばがあった。」という時の「あった」というのは「継続形」で、「ずうっと継続して存在している」という意味があります。聖書は非常に注意深く言葉を選んでイエス・キリストが永遠の神であると、私たちに教えています。


【前未来】
内田樹さんの「明日は明日の風と共に去りぬ−2002年2月」ラカンの前未来をめぐる記述が出てくる。
そこで原文とともに示されたローマ講演「精神分析における言葉と言語活動の様態と領野」の一節を、内田訳で以下にペーストしておく。

 私は言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。私が語る歴史=物語の中に現れるのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。それはもう存在しないからだ。いま現在の私のうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のうちに現れるのは、私がそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。


「暴力以前の力 暴力の根源」と題された今村仁司さんの講演の記録から、関係すると思われる一節をペーストする。

 普通の言語表現ではひとは「われわれの現在」というが、その「現在」を「言う」(知る)ことはできない。瞬間としての現在は「知る」ことができない。あえて「われわれの歴史的現在」を言おうとするなら、 すでにアルチュセールが指摘したように(『マルクスのために』)、また彼の後でデリダが述べるように(『法の力』)、フランス語文法の「前未来形」で語るほかはない。要するに、過去の視点から瞬間的現在をあたかも未来の出来事として語るのである。すでに過去でありながら、未来的なものとして瞬間をとらえる。瞬間は非知であるから、それを語り知るためには比喩をもってするしかない。これはひとつのパラドクスである。もしそうならあらゆる瞬間はこの逆説をかかえる。