『熊の敷石』『雪沼とその周辺』

堀江敏幸の短編集を二冊つづけて読んだ。
なぜこれまでこの人の作品にふれることがなかったのだろうという、ありえたにちがいないたくさんの大切な時間をとりかえしようもなく喪った悔いの思いと同時に、これからこの人のけっして多産ではない過去の作品群をいまちょうどもぎとられたばかりの新鮮な果実を味わうようにして読めることへの歓びが静かにこみあげてくる。


いつどこでどのようなかたちで聴こうとも音楽は音楽だという考え方がある。
そうではなくて、音楽はそれを聴く時と場所、形態、それをとりまく状況や文脈、身体のあり様に大いにかかわるという考え方がある。
考え方というより、そのような特殊な環境のなかでしか経験できない(聴きとることができない)音の質が事実としてあるということだ。
どちらの考え方あるいは経験が正しいかを一般的に論じるのはあまり意味がない。
たぶんある偶然によってもたらされた後者(a music)の個別的な経験を通じて前者(the music)への普遍的な感覚が培われるというのが真実に近いのではないかと思うが、いきなり音楽そのものがイデア的な響きをもって聴き手の経験のうちに到来することもありうるだろう。
小説を読むのもこれと同様だ。
とりわけ堀江敏幸の作品を読むという経験は、それが収められた器である一冊の書物の造本や装幀や紙質、活字のポイントや配置、行間、上下の余白、等々にはじまって、どのような生と思惟と感情の履歴をもった読み手がいつどこでどういういきさつで、またどのような場で、さらにはいかなる身体の構えでそれを読むのかに大いにかかわっている。
しかしそれでいながら、そうした特殊で個別的な読書体験がもたらす堀江敏幸固有の作品世界は、たとえそれを読む人が一人としていなかったとしても最初からそこにひっそりとしかし確かな感触をもって存在していただろうと思わせる普遍的な質を湛えている。
それこそ言葉という、人が生み出したものであるにもかかわらず人を超えた実在性を孕みながら自律的にそこにありつづける媒質の生[なま]のあり方というものだろう。


『熊の敷石』に収められた三つの作品(「熊の敷石」「砂売りが通る」「城址にて」)はいずれも時間の三つの相、すなわち未来、現在、過去の厳密な区画が融解した不安定な「あわい」において事物と記憶、瞬間と永遠がきりむすぶ鮮烈な経験を、一枚のスナップショットのくっきりとした輪郭や切り出されたばかりの石の重量感と、波に洗われる砂の城のような危うく脆い均衡のうちに立ちあがった生々しいものあるいは熊の背でできた敷石のような腥いものとの対比のうちに叙述しきっている。
その経験を綴る文章は複雑で鋭敏な時制感覚によって屈折し、過去の体験とあいまって累乗化される鋭い歯痛(「熊の敷石」)や、二度と到来することのない未来の喪失の予感(「砂売りが通る」)や、永遠に見失われ現在に幽閉されることへの滑稽な恐怖に凍りついた瞬間(「城址にて」)を言葉のスナップショットとして定着する。
読み手は本来表現されることのない「あわい」の時間に宙吊りにされ、一篇の作品が永続的に生きつづけるための濃く深い陰影をともなった領域を心のうちにしっかりと穿たれる。
それが堀江敏幸の文章が達成したことである。


幕切れのあざといまでの鮮やかさは『雪沼とその周辺』の七つの作品(「スタンス・ドット」「イラクサの庭」「河岸段丘」「送り火」「レンガを積む」「ピラニア」「緩斜面」)でも微妙な味わいの違いをもって反復される。
しかしここでの堀江敏幸の文章は技巧性を奥深く内向させ、より事物と人物に即したかたちで綴られている。
ラニアの歯か結晶の鋭角を思わせる極微のとげとげしさは溶けた雪のように跡形もなく消えさり、あるいはイラクサの葉陰にたくみに隠されて、その結果、思わぬことだがその文章に読み手の思惟と感覚の運動を凌駕するスピード感がともなうのである。
遠隔から近傍、全体から細部へと空間を瞬時に移動する視覚。
過去と現在と未来を一気に通り越す暗い暗渠をくぐりぬけて時間の襞にわけいる記憶。
七つの短編はこうして七つの生と老いと死の実質を透明な時空のうちに、やはり言葉で写しとられたスナップショットして鮮やかに定着する。
堀江敏幸の特異な時制感覚は、ここでは美しいイメージを喚起する地名をもつ土地に暮らす人々によってひそかに語り継がれるフォークロアの文体を造形している。
堀江敏幸の「特異な時制感覚」についてもう少し書いておきたいことがあった。が、このことは明日書くことにする。)


     ※
『熊の敷石』の文庫解説「水を描くひと」で川上弘美さんが書いている。
「繊細さに裏打ちされた勁[つよ]い知性によって」書かれた堀江敏幸の「さらさらとした清潔な」文章の気持ちよさは「生理にねざした、野蛮といってもいいようなもの」につながっている。
「淡いけれどもじゅうぶんに禍々しい、予感。/静謐できもちのいい描写の中に、いくつもいくつも紛れこんでいる不安の種が、微妙ないろっぽさを、よびおこす」。

水の上を流れていく一枚の葉の軌跡、を描くことが多くの小説であるとするなら、堀江敏幸の小説は、一枚の葉を流してゆく水のさまざまな姿、を描いているのかもしれない。水はいたるところにあって、澄んでいたり濁っていたり、あるときは流れあるときは淀み、凍ったりもするし蒸発して空気に溶け入ってしまったりもする。それらを描くとき、文章は移る。

評するも人、評されるも人。
『雪沼とその周辺』が文庫化されるとき、その巻末に堀江敏幸の散文に拮抗しうるたしかな実質を備えた文章を寄せることができるのはいったいだれだろう。