哥と共感覚・素材集(追録の1)

 M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛夫訳,法政大学出版局)。「共感覚」という語が二箇所に出てくる。いずれも、第二部「知覚された世界」の「1 感覚すること」でのこと。
 一度目は、メスカリン体験をめぐる記述のなかで。二度目は、「発声映画」の話題につながる箇所で。該当箇所とその前後を、二日にわけて抜き書きする。
 メルロ=ポンティの文章は、読み始めるととまらなくなる。こんな大部の哲学書に、一夏没頭できたらいいと思う。その余裕がないのは残念。


◎空の青み/メスカリンの体験(彼は音そのものを見る)/耳はわれわれに正真正銘の「物」を与える


「…もろもろの感官は互いに連絡しあっている…。(略)もし私が感官の一つにおのれを閉じこめようと欲し、例えば私のすべてを眼のなかに投げいれ、空の青みに身をまかせるならば、私は程なく見つめているという意識さえもたなくなる。そして私がおのれをすっかり視覚と化そうと欲するまさにその刹那、空は「視覚的知覚」たることをやめて、その刹那の私の世界となる。」(370頁)


「感覚的性質は知覚と同延であるどころか、好奇心ないし観察という態度の特殊な産物なのである。私のまなざしをすっかり世界に委ねるかわりに、私がこのまなざしそのものに向い、“正確にいって私は何を見ているのか”[傍点]と自問するとき、感覚的性質が現われるのである。それは私の視覚と世界との間の自然なつきあいのなかには出現しない。それはある問いに対する私のまなざしの答えであり、おのれをその特殊性において知ろうと努める視覚の、二次的もしくは批判的な働きの結果である。」(372頁)


「メスカリンの中毒は公平無私な態度を妨げ、患者をその生命衝動に委ねるから、共感覚(synesthe'sies)の発生を助長するはずである。じじつメスカリンの影響のもとでは、フルートの音は緑青色に見え、メトロノームのチクタクいう音は暗やみのなかで灰色のしみとなって現われる。しみとしみとの間の空間的な間隙は音と音との間の時間的間隔に対応し、しみの大きさは音の強さに、しみの空間的な高さは音の高さに対応する。(略)共感覚的経験はこうして、感覚の概念と客観的思惟とを改めて問題にする、新たな機会を提供しているのである。“それというのも被験者は、ただ単に音と色とを同時に経験するといっているのではなく、色彩が形づくられるその場所に、彼は音そのものを見るのだからである”[傍点]。視覚が視覚的 quale によって、音が音響的 quale によって定義されるならば、被験者のこのいい方は文字通り意味を失ってしまう。しかし、何といっても音を見るということ、色を聞くということは現象として存在するのだから、被験者の言明が意味をもつような仕方で、われわれの定義を構成する責任がわれわれに存するのである。そしてこれは例外的な現象でさえない。共感覚的知覚はむしろふつうのことなのだ。」(374-378頁)


「一羽の鳥がそこから飛び立ったばかりの木の枝の運動のうちに、この枝のしなやかさ、もしくは弾性が読みとられ、林檎の枝と樺の枝とがこうして直ちに見分けられる。われわれは、砂のなかに沈んだ鋳鉄の塊りの重さや水の流動性やシロップの粘性を見ることができるし、また同様にして、道路を通る馬車の響きのなかに敷石の堅さと凹凸を聞きとることができるのである。したがって「軟らかい」音「艶のない」音「乾いた」音などといわれるものももっともなことなのだ。耳がわれわれに正真正銘の「物」を与えることを、たとえ疑うことができるにしても、少なくとも耳が空間における音を越えて、「音を出す」ある物をわれわれに提示し、これによって、他の諸感官と連絡していることは確かである。最後に、もし私がまぶたを閉じて、鋼の棒と科[しな]の木の枝とをたわめるならば、私はこの二本の手の間で、金属と木材の奥まった組織を知覚する。したがって「あい異なる感官の与件」は、それぞれ比較を許さぬ性質として取り上げられた場合には別々の世界に属することになるけれども、またそれぞれその特殊な本質において、物を吟ずる(moduler)一つの仕方であるので、それらはすべて、その有意味的な核心によって互いに連絡しあっているのである。」(376-377頁)