哥と共感覚・素材集3

 共感覚と直接的に関係しないのかもしれないが、(ドゥルーズガタリの「動物になること」との関連で)、リルケの「開かれた世界」もしくは「世界内部空間 Weltinnenraum」という概念が興味深い。
 辻邦生著『薔薇の沈黙』によると、「世界内部空間」は(天使的な)純粋意欲に対応して存在するものである(93頁)。それは「存在と非存在を貫く存在形式」(94頁)である。「生と死、内と外を貫く空間」(129頁)であり、「過去も未来もない持続」(146頁)である。
 また、「純粋意欲」は、ニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものである(162頁)。
 以下、同著から、いくつかの文章とそこで引用されたリルケの詩と書簡を抜き書きする。
 なお、ネットでは、多代田いわみ氏の「リルケの「世界内部空間(Weltinnenraum)」について―<死者の声>の理念を中心に―」が参考になった。


辻邦生『薔薇の沈黙──リルケ論の試み』(筑摩書房


 …この〈内〉は無となり、〈外〉を映すものとしてのみ存在しているので、ここでは〈内〉はそっくり〈外〉として存在しはじめている。前章末尾に掲げた詩[「薔薇の内部」]「何処にこの内部に対する/外部があるのだろう?」は、このことを言っている。強いて言えば内部に対する外部は、内部にしかない。〈外〉は〈内〉に包まれ、〈内〉は無化し〈外〉と一つになる。〈内〉から〈外〉へという溢出(「あまたの薔薇は/みちあふれ/内部の世界から/外部へとあふれ出ている」)は実は〈内〉から〈外〉へではなく、〈“外”〉“から”〈内〉へ溢れ出ているということになる。
 この「〈外〉から」の〈外〉は、無化された〈内〉に映っている〈外〉である。したがってこの〈外〉からの働き(匂い、色、形体付与などの働き)が溢れるとは、〈外〉がある匂い、色調、形体に変貌してゆくことに他ならない。あたかも匂いが薔薇から溢れ、夏らしい世界へと変ってゆくようにである(「そして外部はますますみちて 圏を閉じ/ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に/夢のなかの一つの部屋になるのだ」)。
 後期の詩『転向』のなかでリルケが「もはや眼の仕事はなされた/いまや、心の仕事をするがいい」と歌ったのは、見る存在としての〈内〉が無となって〈外〉と一体化した瞬間を直覚したからだろう。見る主観と見られる対象という対立関係は、この新しい場、新しい空間では消える。そこには「心の仕事」──つまり〈見る〉ではなく〈感じる〉が開始される。と同時に、主観・客体の二元論のかわりに、〈感じる〉ことによって一元的に現象する世界が、そこに存在しはじめる。(70-71頁)


 青空を見るとき、われわれは単に青空がそこにあると思うにすぎない。……だが、〈見る〉を超えた感受にとっては「青空」は何か“それ”によって心をときめかせるものとなる。……すくなくとも、それはただ空が青いという現象的事実ではなく、その青さによってたえず無限の物想いを語りつづける存在となる。それは時にゴッホの画面に深く沈むオーベールの麦畑の上の青空のように、無限の悲しみを語りつづける。またセザンヌの『大水浴』の遠い青空のように地上の悦楽の極点にある至福を象徴する。
 ここでは〈見る〉は「青空という物」の外にあるのではないし、その現象的事実に従属しているのでもない。逆に、そこに「青空」という新しい現実を生みだし、われわれはその中に入り、無限の内容を生き始めるのだ。「青空」はもはや現象的事実ではなく、感受力は現象する青空の単一性を超え、そこに無限に開かれる青空の映像を映してゆくことになる。それは喜びから悲しみまであらゆる調音を響かせるが、その根底には存在の歓喜が横たわっている。なぜなら〈見る〉を超えた感受力は、何よりも、存在に内在する生命力と交換するからだ。(163-164頁)


 それ[純粋な生命力]は〈見る〉を超えることによって〈対象[もの]〉としての世界でない世界(〈開かれた世界・世界内部空間〉)の現前を可能にする。自己はここでは全存在と一体化し、全存在という形で(もはや自己意識はなく)純粋な活動体となる。つまり自己の内面は純粋に透明化することによって、外面世界と完全に一体化する。〈見る〉によって主客が分裂せざるを得なかったわれわれは、ここではじめてこの愛と自己透明化によって、外界全体に浸透する。そしてそこには自己性が存在しない結果、内面と外面の合一が実現するのである。
 また死が自己の有限を外界に投射したものである以上、自己性を超出した純粋活動体にとっては死は存在しない。活動力が死を超えて働きつづけるからである。「“死を”みるのはわれわれだけだ」[「第八の悲歌」]と言うのは、われわれだけが自己の獲得を目ざして活動するからだ。「動物は自由な存在として/けっして没落に追いつかれ」ないとは、逆に、人間以外の生きものたちはひたすらそれを持ち合わせないからである。(174-175頁)


 それ[世界内部空間]を全身で生きるとは、彼自身が自己性を克服し、内と外の合一化を体験し、生と死のめくるめく合体を通して、突然、自在な永遠的存在に変貌することなのだ。それ“について”語る人ではなく、それ“から”すべてを語り出す人になる。もはや〈世界内部空間〉についても〈天使〉についても話す必要はなくなる。彼自身が〈世界内部空間〉から語り、〈天使〉的存在として語るからである。一九二二年一月の詩的奇蹟ともいうべき突然の詩作の嵐は、まさしくこうした存在になり得たリルケが、神話を憑依的に語る巫女さながらに、存在のあらゆる形姿を言語化したプロセスということができるだろう。
 そこには、〈固有の死〉〈愛する女〉を通って〈天使〉の出現に至る登高のひたむきな姿勢から、〈世界内部空間〉の内側から発する多様な声へと変容するリルケが見てとれる。たとえば、人間は〈天使〉に対してただ恐れる存在ではなく、人間の役割をはっきり明示する存在に変る。いまやリルケは「地上にあること」を全肯定する詩人として立つ。(176頁)


 それ[世界内部空間]は薔薇に抱かれた世界であり、世界は薔薇に変貌している。〈見る〉を超えて現われる世界、心の愛でひしと抱かれた世界とは、薔薇の本質である〈歓喜・陶酔〉を充満させた空間にほかならない。晩年のリルケはミュゾットの館でこの成熟を経験し、力に満ちた日々を取り戻した。薔薇は夏の光の下で沈黙し、ただ充実した内面の活動に宇宙的生命を象徴化する。沈黙とは、この宇宙的な理法のすべてに通暁し、生命という至福の業[わざ]をまさしくこの〈薔薇〉という形で言うことなのだ。


  ぼくはお前を見つめる、薔薇よ、半開きの書物よ、
  細々と幸福を書き綴った
  多くの頁。ぼくはとても
  読みきれそうにない、魔法の書物よ(『薔薇』?)


〈薔薇空間〉となったリルケは甘美な陶酔の持続となって、時間を超え、生と死を超える。おそらくいまわれわれにとってなすべきことは、〈見る〉ことの果てに出現した〈対象[もの]としての世界〉を、いかにして〈薔薇空間〉へ変容するか、ということだろう。不毛と無感動と貨幣万能の現代世界のなかで、はたして至福に向かってのそんな転回が可能かどうか、われわれがある決意の時に立たされていることは事実だろう。(177-178頁)


     ※


  「薔薇の内部」(『新詩集』別巻)


何処にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖[うちうみ]に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ。(富士川英郎訳)


     ※


  「第八の悲歌」から(『ドゥイノの悲歌』)


すべての眼で生きものたちは
開かれた世界を見ている。われわれ人間だけが
いわば反対の方向をさしている。そして罠として、生きものたちを、
かれらの自由な出口を、十重二十重[とえはたえ]にかこんでいる。
その出口のそとに“ある”ものをわれらは
動物のおももちから知るばかりでだ、おさない子供をさえも
わたしたちはこちら向きにさせて
形態の世界を見るように強いる。動物の眼に
あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようともしない、死から自由のその世界を。
“死を”みるのはわれわれだけだ。動物は自由な存在として
けっして没落に追いつかれることがなく
おのれの前には神をのぞんでいる。あゆむとき、
それは永遠のなかへとあゆむ、湧き出る泉がそうであるように。
“われわれ”はかつて一度も、一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない。われわれが向きあっているのは
いつも世界だ、(辻邦生訳)


     ※


  リルケの手紙(ハイデッガーによる引用)


 この悲歌の中で提起しようとした開かれた世界の概念についてですが、動物は(われわれ人間がいつもそうしているようには)世界を各瞬間瞬間に自己と対立させることをしないので、動物の意識の段階は開かれた世界を現実の世界の中へ組み込んでしまうのだというふうに理解していただかねばなりません。動物は世界の“中に”存在しているのです。われわれはわれわれの意識のとった独自の方向と意識の高まりのために、世界を“前に”して立っているのです。(…)開かれた世界といっても、空、大気、空間などを考えているのではありません。それらにしても観察者、判断者にとっては、「対象」となるものであり、従って、「不透明」かつ閉じられたものになってしまいます。動物や花などは、推測しますに、自らについて弁明することなしに一切で“あり”、自らの前に、自らの上に、あの言い現わし難く開かれた自由というものを持っているのです。この自由は、われわれの場合にはおそらく、人間どうし、たとえば恋人どうしが相手のなかに、自分自身の拡がりを見るところのあの愛の最初の瞬間とか、神への献身とかの中にのみ、(極度に瞬間的な)その等価物を有するものなのです。[ハイデッガー『乏しき時代の詩人』、手塚富雄高橋英夫訳]