哥と共感覚・素材集2

◆リチャード・E・シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常──形を味わう人、色を聴く人』(山下篤子訳,草思社


「異種感覚間連合の説明をしてくれ」
「二歳の子どもを考えてください。その子に何かを見せて、それからその子を物がいっぱいある暗い場所に入れます。その子は触覚だけで、さっき見た物体と同一のものを選んで認識できます。これが異種感覚間連合で、幼い子どもでももっている人間の能力です」
「わかった」
「異種感覚間連合の能力が言語の基礎であることは、ずっと以前から知られています。サルはこれができません。人間以外の動物で容易に確立できる感覚と感覚の連合は、快などの情動刺激と、視覚、触覚、聴覚といった非情動刺激との結びつきだけです。非情動刺激を二つ結びつけられるのは人間だけです。だからこそわれわれは、物に名前をつけられるのです。……
 ……標準的な見解によれば、言語はもっとも高次の異種感覚間連合で、とりわけ三次連合野や皮質の各領域のつながりに依存しています。プロセス全体が、この進化的にもっとも若い部分で起こっているのです」
「話はわかった。しかしその話は、共感覚の連合がどこで生じるのかという問題とどう関係しているんだ?」
「異種感覚間連合は、われわれの思考の正常な一部ですが、無意識レベルで起こっています。共感覚者の場合は、あたかもこうした連合が、厚い雲のなかから少し顔をのぞかせる太陽のように、意識のなかに顔をのぞかせているという感じです。……
 われわれは聞くものと見るものを別個の出来事として区別するにもかかわらず、それらの感覚を、それについての思考を形成する過程で統合できることは経験からわかります。その統合は、われわれの意識にのぼらないレベルで起こります。共感覚者と呼ばれている小数の人たちは、あたかも感覚のチャンネルの一部が意識のもとで統合されているかのように、通常は隠れている正常な知覚過程が意識の前にむきだしになっているかのようにふるまいます」
 ……「……もし共感覚の連合のリンクが神経処理の最上位レベルで起こっているなら、それは言語やアリストテレスの共通感覚のように、抽象的なものになるはずです。この上位レベルの連合は人間が生得的に使うメタファーに似ています。この場合、共感覚の知覚は意味論的な意味に満ちているはずだし、直接的な感覚属性をすべて失っているでしょう。体験は具象的ではなく抽象的になるはずです」
「そして前後関係が体験に影響をおよぼすはずだな」(139-140頁)


 共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとのぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるものは、とりわけ海馬に集まるのは、感覚受容体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての“多感覚の評価”である。
 私は共感覚者を“認知の化石”と呼んでいる。人間であること、哺乳類であることのきわめて根本的な部分を認識する能力を、ほんの少しではあるが、彼らが運よく保っているからだ。
 私たちはひょっとして、この付加的な能力をもつ共感覚者に進化するのだろうか? いや、私たちはすでに能力をもっているが、それを知らないのだ。共感覚は付加されるものではなく、すでに存在している。多感覚の意識は、大多数の人において意識から“失われた”ものなのだ。この点からも、共感覚者は認知の化石であると考えざるをえない。
 私たちは、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。多感覚の、共感覚的現実観は、まちがいなく私たちの意識から失われているものの一つにすぎない。ほかにもたくさなるかもしれない。もしあなたが、このより深い知をいくらかでも取り戻してみたいと思うなら、情動からはじめるのがいいと私は思う。情動は私たちの自己の、意識がアクセスできる部分とできない部分との接点に存在しているように思えるからだ。(239-240頁)


「すると共感覚者は、人間はもちろん、広くは哺乳類であるという状態を端的に示しているのだね?」
「そのとおりだ。僕は共感覚が原始的だとか、初期人類が世界を共感覚的に知覚していたかもしれないとか、そういうことを言っているのではない。いつもこの点が誤解されるらしいが、通常の経験よりも僕たちの生物学的なルーツに近いという意味で言っている。
 テレビのたとえ話をしてみよう。僕らはみんなテレビ画面で像を見る。さて、だれかが、最終的な像が画面に映る前の段階で、信号を知覚してそれを理解できるとする。その人は共感覚者とまったく同じだ。共感覚者は根本的に、感覚をもって生きている生物の基盤により近い」
「なんという、みごとなたとえだ!」(250-251頁)


◆湯山光俊「二重の論理学、溢れ出る生──ジル・ドゥルーズについて」(『ポリロゴス1』)


 ベーコンは肖像画家なのだろうか? 顔でなく「頭部」を描く肖像画家。「頭部」とは、肉体も全て呑み込んだような運動のあるものであり、先の文脈からつなげば〈形象〉[figure]である。身体の器官の機能分化ができず、肉の蠢きだけのようになっていく、あの〈器官なき身体〉こそ〈形象〉なのだ。ドゥルーズはこのとき動物への生成変化がおきていると書き加える[『感覚の論理』]。


 動物? ある動物が敵の存在を知るとき、たとえば鼻は単純に匂いをかぎまわる専用の器官なのだろうか。濡れたその鼻の上に風の微細な動きも読み取ることはないのだろうか。わずかな物音にも身構える耳は温度や音波を感じ、目は暗闇で見えずとも開かれる。この時、ただ目は「見ている」器官なのだといえるのだろうか。突然自分が食われてしまおうとしているのだ。自分がただの肉と骨になる前に、動物はあらゆる器官を連動させて見えない敵を見ようとするにちがいない。そのとき全ての器官は単純な能力の分担をやめる。目はもう「見ている」だけでなく、足音を聴くことも匂いを嗅ぐこともできる。そんな瞬間が人間にも訪れるだろう。顔であったものはまだ、あらゆる役割に囚われている。自分が肉と骨の現実に直面したとき、人は肉屋でさばかれる肉の塊のように自分のことを思うのだ。しかしその手前で猛烈な器官の運動は起き、もはや一個の感覚体のように凝縮され、運動は開始される。それが〈器官なき身体〉であり〈形象〉となる。すべての器官がとけさり、能力が最高度に高められて、コラールが叫びへと変わるのである。


 ベーコンはそれでも人間が肉屋につるされるような肉の塊であることを宗教家のように憐れみ、そして享楽した。だからこそ、人間が見えなくなってしまう前に、肉と骨になる寸前に、形象である「頭部」の運動の中にそうした人間のめまぐるしい能力の回転を描き込むのだ。そして、その孤立した〈形象〉はエネルギーを高めるように強度を増していく。


 これらベーコンの絵画の構成は、『千のプラトー』の三つの図式を敷延している。まず「強度になること」。形象は孤立化し、骨と肉は対立し、軽業的な運動競技がはじまる。そして「動物になること」。肉の塊になる手前で、たとえば動物とカップリングされるように能力は能力をこえてむすびつき、警戒し、緊張し、陶酔し、すべての器官はたったひとつの精神としての感覚器にされ、〈器官なき身体〉が現れる。最後に「知覚できなくなること」。猛烈な形象の運動のスピンは加速度をまし、もはや顔という知覚をこえる。運動が見るという役目だけを負わされた網膜では捉えられなくなっていく。まさしく不可逆な運動の行く果てへ。画布から網膜の上へ。フィギュールははりつくのだ。見よ。三つの図式が連結している。「強度になること、動物になること、知覚できなくなること」。(198-200頁)