哥と共感覚・素材集(追録の2)

 M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』から。


◎身体は実存の凝固した形態である/発声映画/身体は語にその原初的な意味を付与する感応的対象である


「これ[両眼視の総合]を諸感官の統一の問題に適用してみよう。諸感官の統一は、一つの根源的な意識のもとへのそれらの包摂によって理解されるのではなく、認識する唯一の身体へのそれらの統合によって、しかし決して完成されない統合によって理解されるはずである。相互感官的な対象と視覚的対象との関係は、視覚的対象と複眼における単眼視像との関係に等しい。そしてもろもろの感官は、二つの眼が視覚において協力しあうように、知覚において相互に連絡する。音を見たり、色を聞いたりする働きは、まなざしの統一が両眼を通じてなされるような仕方で、実現されるのである。こういうことが起るのも、私の身体が並存する諸感官の総和ではなくて、諸感官の共働的な組織であり、そのあらゆる機能が「世界における(への)存在」の一般的運動のなかで捉え直され、結びつけられているからである。つまり身体が実存の凝固した形態だからである。見ること、もしくは聞くことが、ある不透明な quale の単なる所有ではなくて、実存の一つの様式の体験であり、私の身体とそれとの同調であるならば、私が音を見たり色を聞いたりするということにも、一つの意味がある。そして性質の経験がある仕方の運動もしくは振舞の体験であるならば、共感覚の問題にも解決の曙光が見出される。私がある音を見るというとき、私が意味していることは、音の振動に、私の感官的存在の全体によって、そしてとりわけ色に感じうる私自身の区域によって、私がこだましているということなのである。客観的な運動、つまり空間における位置の変化としてではなく、運動の企投もしくは「潜勢的運動」として理解されるならば、運動は、諸感官の統一の基礎である。発声映画が情景に単に音響上の随伴物を添えるにとどまるものではなくて、情景そのものの内容をも変えるということはよく知られている。フランス語に吹き替えられた映画を見ているとき、私は、ただ単に言葉と映像との不一致に気づくばかりではない。突如としてかしこで“別のこと”が語られていると私には思われてくるのである。そして劇場と私の耳は吹き替えられた言葉で充たされているのに、この言葉は私にとって、聴覚的な存在さえもってはいない。そして、私は、スクリーンからやってくる音のない別の言葉にしか耳を傾けていないのである。映写の途中、突然発声装置に故障が起きて、スクリーンの上で演技しつづける役者の声が出なくなると、そのとたん私から去ってゆくのは、単にこの人物の言葉の意味だけではない。情景そのものも変えられてしまうのだ。今しがたまで生き生きしていた役者の表情は、狼狽したひとのそれのように、もつれ、こわばる。音の中断はスクリーンを一種の麻痺状態におとしいれる。観客の側で役者の身振りと言葉とが一つの観念的な意義のもとに包摂されるのではなくて、言葉は身振りを、身振りは言葉を継承し、私の身体をとおして互いに通いあうのである。私の身体の感覚的側面と同様に、それらは直接相互に象徴しあう関係にあるが、それというのも、私の身体がまさに、相互感官的な等値と置換の既成のシステムだからである。諸感官は、翻訳者を必要としないでおのずから互いに翻訳され、観念を通過することを要せずに互いに了解しあう。以上の注意は、ヘルダーの次の言葉──「人間とは、時には一方からまた時には他方から触発される一個の持続的な共通感官(sensorium commune)である」──の意味を十全に理解せしめるものである。身体像という概念でもって新たな仕方で描かれるのは、単に身体の統一だけではない。身体の統一をとおして、諸感官の統一も対象の統一もまた然りである。私の身体は表現(Ausdruck)という現象の場所であり、むしろその現実性(actualite')そのものなのである。そこにおいては例えば視覚的経験と聴覚的経験とは相互にはらみあい、これらの経験のもつ表現的な値が、知覚世界の先述定的統一(unite' ante'pre'dicative)を基礎づけ、これをとおして、言語的表現(Darastellung)と知的意義(Bedeutung)とを基礎づけるのである。私の身体は、あらゆる対象の共通の織地であり、少くとも知覚世界に関しては、私の「了解」(compre'hension)の普遍的な道具である。」(382-384頁)


「要するに私の身体は、ただ単に、あらゆる他の諸対象とならぶ一個の対象でもなければ、さまざまな感覚的諸性質の複合体の一つにとどまるものでもなく、それにもましてあらゆる他の諸対象に“感応する”一個の対象なのである。つまり、それは、あらゆる音と共鳴し、あらゆる色と共振し、語を迎え入れる仕方によって語にその原初的な意味を付与するところの、“感応的”対象なのである。(略)それゆえ、われわれは語の意義はもちろん、知覚されたものの意義でさえ、「身体的感覚」の総和に還元しているのではない。そうではなくて、身体にはさまざまな「振る舞い方」がある以上、身体とは自分自身の諸部分を世界の一般的な象徴手段として用いるあの特異な対象なのであり、したがってそのおかげでわれわれがこの世界と「親しくする」ことができ、それを「了解し」そこに意義を見出すことができるようになる当のものであるということ、これがわれわれの主張なのである。」(386-387頁)