〈インメモリアル〉な時を求めて


  「かたるに落ちる」というけれど、「はなすに落ちる」とはいわない。
  だから、〈かたる〉は〈はなす〉よりひとつ上の世界にすまいしている。
  〈うたう〉や〈いのる〉、〈つげる〉や〈のる〉と〈はなす〉のはざまから、
  神と人の垂直の関係へ、はては〈しじま〉に向けて、〈かたり〉は転移し変容する。


  おなじ〈はなし〉はあるけれど、世にふたつとおなじ〈かたり〉は存在しない。
  語り手が〈巫祝の時制〉をもって「見てきたように」かたるのは、とおく過ぎ去った
  〈いにしへ〉の思い出ではなく、生きたままよみがえるいまは〈むかし〉の物語。
  〈インメモリアル〉な神話的過去のアウラを帯びた、出来事の一回性。


  「語る」は「騙る」──垂直の時間に参入した〈かたり〉の人称が多重化される。
  作家と読者、主人公、架空の語り手、仮想の受信者、そして〈巫女〉と〈もののけ〉。
  連なる仮面のようにペルソナが転移し、人称的なものの生きた味わいがたちあがる。


  幾重ものトランスポジション(比喩、化体)をはらんだ営みとしての〈かたり〉。
  多くのヴァージョンをもち自己増殖するポリフォニアとしての〈物語〉。
  歴史と伝説、実録と虚構、〈無限人称〉の科学と〈原人称〉の詩が一つになるところ。




[註]
 〈インメモリアル〉は、坂部恵著『かたり──物語の文法』(ちくま学芸文庫)のキーワード。
 言語行為、さらには言語行為をもその一環として含む〈ふるまい〉一般に関して、坂部氏は「はなし─かたり─うた」と「ふるまい─ふり─まい」の二つの図式を示す。
 これらの図式において、左から右へと進むほど、俗なる水平の言語行為から聖なる垂直の言語行為へ、また日常的な水平のふるまいから儀礼化された垂直のふるまいへと移行する。


《この進行につれて、一般に、行為の主体もまた二重化的超出ないし二重化的統合の度合いを高め、またその構造を顕在化させる。
 ひとは、この度合いの高まりないし構造の顕在化につれて、いわば日常目前の生活世界の時空への拘束からはなれて、そうした目前の利害・効用に直結するいわば水平の時間・空間から、記憶や想像力や歴史の垂直の時間・空間の奥行のうちへと参入する。この垂直の時間・空間の次元は、すでに多少見たように、その究極において、真に非日常的な〈ミュートス〉神話の空間、記憶を絶したその〈インメモリアル〉な時間にふれる。通常の記憶や想像力の世界と〈ミュートス〉の世界をへだてる境界は、しかし、それほど明瞭なものではなく、ひとは、一旦、日常効用の水平の世界と直交する記憶や想像力の垂直の次元に参入すれば、そこでは、すべての形象は、すでになにほどか神話的色合を帯び、反対に、遠い記憶の底に沈んだあれこれの神話的形象や原型(archetype)は、日常の記憶や知覚の世界に還流する思いがけないほどに身近な直接の回路をわれわれの心性のうちにそなえているかもしれない。それは、一言でいって、プルーストジョイスの記憶や想像力の〈かたり〉の世界であり、あるいは、ベルクソンの持続と純粋想起の世界である。
 いずれにせよ、〈かたり〉や〈ふり〉、さらには〈うた〉や〈まい〉の場がひらかれるのは、こうした、日常効用の水平の時空と、記憶や想像力の垂直の時空がたちまじるはざまにおいてにほかならない。》(52-53頁)


 この、水平と垂直の直交関係を基本図式として、その上に、坂部氏は、ハラルト・ヴァインリヒの『時制論』とロマーン・ヤーコブソンの詩的言語論(「言語学詩学」ほか)の「注解」ないしは「注釈」を通じて、時制、人称、様相といった〈かたり〉の文法をめぐる議論を重ね描いていく。
 たとえば、坂部氏は、ヴァインリヒの議論から抽出した「アオリスト」(古代ギリシャ語で悲劇をはじめとする文学作品の〈かたり〉において頻繁に使用された時制、バンヴェニストはフランス語やスペイン語の単純過去をアオリストと呼ぶ)について、これを「神がかりした巫祝の〈かたり〉の時制であった」と想定する。
 そして、古事記などに用いられる「き」を、(夢幻の世界から現実に立ち返った感慨をあらわす「けり」とは違って)、歴史的神話的過去に属することを「見てきたように叙述する」語部の時制、アオリスト助辞ととらえた先達の議論(藤井貞和著『物語文学成立史』ほか)へと接続していく(78-84頁)。


《未完了過去や条件法で述べられる過去の出来事が、原理的に繰り返し可能で、別様でもありえ、時間を逆転して呼び返すことが可能であると見なされるのにたいして、アオリストで述べられる〈むかし〉は、もはや二度と呼び返すすべのない既定性と、一種魂の故郷の味わいをもった神話的なアウラを帯び、通常の記憶ないし思い出を絶してそれらとは別の秩序に属する〈インメモリアル〉な時の後光をなにほどかうけながら、集団や個人の心性のうちに生きたままよみがえるのである。(ベルクソンが、この種の記憶を〈純粋想起〉の名で呼んだことは、周知のとおり。)
 アオリストがときに〈語部の時制〉と呼ばれるのもむべなるかなということになろう。
〈かたり〉という発話態度は、おそらく、いまにいたるまで、通常の(無限定な)過去とは質的に区別された、神話的な過去との地下水脈による結び付きの記憶を、かろうじてにもせよ、処々で保ちつづけているにちがいない。》(163-164頁)


 インメモリアルな時に属する出来事を「見てきたように語る」こととパラレルな、もう一つの〈かたり〉というものがあるのではないか。それは、異なるペルソナに属する思考や感情を「我がことのように語る」こと、すなわち坂部氏自身が本書で実践した〈かたり〉のことなのではないか。


《注解という仕事は、今日では(あるいは今日でも)、ともすれば一段低く見られがちだが、ときにペトルス・ロンバルドゥス命題集注解などという一見さりげなく地味な形で、近世以降のなまじ〈独創的〉な著者たちなど及びもつかぬほどの最良質の創造性(とときには詩情さえも)を発揮することを知っていた西欧中世の多くは無名の注釈者たちや、あるいは、フマニストとしての素養も充分にあり、詩心もあるわが国の中世連歌師たちのすぐれた古歌注釈の仕事などを、むしろ至上の範ともし目標ともしたいとわたくしはかねてから考えてきた。》(「あとがき」)


 坂部氏が実践した〈かたり〉、すなわち「注解」もしくは「注釈」の仕事(本歌取りならぬ「本家取り」とでも呼んでおこうか)の手際はまことに鮮やかで、この、二つのあとがきと(野家啓一氏の)解説を含めて二百頁に満たない書物のうちに、(冒頭に「身毒丸」への附言が引用された折口信夫の仕事についていわれるのと同じように)、まさに「坂部学」としか形容のしようのない、きわめて濃度の高い、詩と哲学が高次元で融合しあう「ポリフォニックなトランスポジションの場」(「文庫版へのあとがき」)がひらかれている。


(私はここで、一人の文学者のことを想起している。「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。」(「無常という事」)と書いた小林秀雄。「小林は『罪と罰』を書こうとしているのではないだろうか。…小林はあのドストエフスキイ作の、あの『罪と罰』を書こうとしているのではないだろうか。」(山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」)と評された、あの小林秀雄のことを。)