時間の外、非人称的な読書空間(前半)


モーリス・ブランショ『来るべき書物』(粟津則雄訳,ちくま学芸文庫


 分量的な意味での本書の折り返し点にあたるブロッホ論を読み終えたところで、中間総括的な感想を書いておこうと思いたった。
 「小説は読んでいる時間の中にしかない」とは保坂和志の至言だが、批評は読んでいる時間の中やその前後にあるのではなく、「読んでいる時間の外」にしかない。「読んでいる」のは批評家で、批評文を読んでいる読者はその批評家が「読んでいる」小説を読んでいるわけではないからだ。
 それは文字通り読者が批評の対象となった小説を読んでいない場合もふくめで、批評家の読書体験は読者のそれではない(批評家の「読んでいる時間」を読者は経験できない)というしごく当たり前のことを言っている。
 なにが言いたいのかというと、読んでいない小説や小説家について書かれた批評文を読む権利(精確には、読んで愉しみ思索をめぐらす自由)が読者にはあるということだ。


 カフカマラルメをはじめ、ジョイスプルーストアルトークローデルボルヘスヴァージニア・ウルフブロッホ、そして、ヘンリー・ジェイムズムージルヘルマン・ヘッセ、等々。本書はこれら20世紀文学の巨匠たちの諸作品を取り上げる。
 その多く、いやほとんどの作品が未読もしくは未読了である(私の場合)にもかかわらず、なぜどうしてブランショの批評文を読むことができるのか。その多く、いやほとんどの議論がまるで理解できないかもしくはおぼろげにしか理解できない(私の場合)にもかかわらず、なぜどうしてブランショの批評文を面白く(精確には、読む価値があるものとして飽きずに)読めるのか。
 それはきっとブランショだからだろう。
 あの(「戦前のポール・ヴァレリーに比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家」とウィキペディアに書かれている)ブランショが書いた文章だから、そして『文学空間』とならぶ高名な(「文芸批評の金字塔」と文庫の帯に書かれている)書物だからこそなのだろう。
 ここにはなにかしら決定的に重要な未聞の事柄が語られている。そんな心の構えをもって臨むからこそ、たとえばブランショの文章の「わからなさ」さえもが一種のブランドとなって、読者(私)の脳髄に読み解かれるべき謎を刻印するのだ。


 これは皮肉を書いているのではない。
 高名な書物の前半を読み終え、あの巨匠たちの傑作群を相手どってこれに拮抗しうる文章を綴ることができるのはあのブランショだからこそなのだと、そしてここには紛う事なき真性の批評が息づいているのだという内容の伴わない形式的な、それでいてリアルな(精確には、書かれていることの内容はよくわからないが、なにか確かなことが語られていることはわかるという)感想が立ち上がってきたことを書き残しておきたかった。


 以上で感想は終わり。記念に二つ、引用しておく。前段は「プルーストの経験」から。後段は「ブロッホ」から。


《かくて、ゲルマント家の中庭の不揃いな敷石にけつまずいた一歩が、突然──まったくこれ以上の唐突さはない──かつてサン・マルコ寺院の洗礼場の不揃いな敷石にけつまずいたあの一歩となる。これは、同一の一歩であって、「すぎ去った或る感覚のかげやこだまではなく……その感覚そのものであり」、ささいではあるがいっさいをくつがえす力を持った事件であり、それは、時間の横糸を断ち切り、その切断によって、われわれを或る別の世界に導き入れるのである。時間のそとへ、とプルーストは、大急ぎで語っている。彼は断言するのだ、そうだ、今や時間はほろび去っている、なぜなら私は、ヴェネチアでの一瞬とゲルマント家での一瞬とを、ひとつの過去とひとつの現在としてではなく、持続の流れ全体によってわけへだてられた両立しがたいさまざまな瞬間を或る感覚的な同時性のなかに共存させる或る同一の現在として、束の間ではあるが否定しえぬ現実的なとらえ方で、同時にとらえているからである。かくてここには、時間そのものによって消し去られた時間がある。ここには死があるのだが、この死は、中断され中性化され空しい無害なものとされた時間の働きなのである。なんという一瞬だろう!》(32-33頁)


ジョイスにおいては、思想とイマージュと感覚は並置されていて、それらを運ぶ巨大な言語の流れ以外にそれらを一つに結びつけるものは何ひとつない。ブロッホにおいては、人間的現実のさまざまな深みのあいだに交換作用があり、刻々に、感情から瞑想への、なまな経験から反省によってとらえられたより巨大な経験への移行がある。──そして、次いでまた、新たに、この巨大な経験が、より深い無知のなかに没するのであり、この無知がまた、より内的な知へと変形するのである。》(254-255頁)


(前段の文章を読んだときに頭に浮かんだのは、小林秀雄が歴史について、頭を記憶で一杯にするのではなく心を虚しくして思い出さなければならないと語ったことだった。過去の知覚体験を記憶のなかから想起するのではなく、現在の体験として経験すること。クオリアを媒介にして、過去の経験と現在の経験が「同一」のものになる。後段の文章がなぜ記憶に残ったのかは、残念ながら思い出せない。)


 訳者あとがきに、前半のブロッホ論と後半のヘッセ論にブランショの批評の技の冴えがみられるといった趣旨のことが書いてある。「ヘッセ論における精妙な対位法的構成、ブロッホ論の言わば重層的な論法」。
 期待して後半を読み始めるとすぐ、カフカの手帖(「カフカがさまざまな物語の草稿を書きつけたあのノート」)について書かれた文章がでてきた。本書冒頭の「物語とは、出来事の報告ではなく、出来事そのものなのである。」(21頁)というフレーズと響き合っている。


《そこには、多くの草稿が書かれているが、これらの草稿は、作品そのものである。時には、ただの一ページだったり、ただの一句だったりすることもあるが、この一句は、物語の深みと関わっている。この一句がひとつの追求であるとしても、それは、物語自身による、物語の追求なのである。これらの断片は、あとになって役立てられる素材ではないのだ。プルーストは、はさみや糊を使う。また「書き加えた原稿をあちらこちらにピンでとめ」、これらの「紙きれ」でその書物を築きあげるが、「大寺院を建てるようにこまごまと語り尽すことまでは敢てせず、ただ単に、服を作るように語る」のである。他の或る作家たちの場合は、物語は、外部から構成されえない。物語は、もしそれ自身が、あの進展運動を、それを通して物語が自己を実現する空間を見出すあの運動を保持していなければ、いっさいの力と現実性を失うのである。書物の場合、このことは必ずしも人知れぬ非合理的な一貫性を意味するわけではない。たとえば、カフカの書物は、その構造という点から見れば、ジョイスの書物以上にはっきりしている。プルーストの書物ほど読み辛くもなければ入り組んでもいない。》(264-265頁)