『クオリア降臨』『脳の中の人生』

茂木健一郎クオリア降臨』読了。
読み始めに覚えた違和感(茂木氏の文学観に対する)が最後まで足をひっぱって、いまひとつ読中感が高揚しなかった。
それでも、エピソード記憶意味記憶をめぐって開高健『夏の闇』の「女」の話題が樋口一葉小林秀雄と並んで出てきたのは嬉しかった(「「スカ」の時代を抱きしめて」140頁)。
「人間は、未だ、情報というものをとらえ切れていない」(同149頁)とか、「「私」の脳の中の情報を全てコンピュータに置き換えれば、「私」という体験が複製されるという技術者の冒険主義は、クオリアの私秘性という意識の現象学的存在基盤によって否定されるしかないのである」(「複製技術時代」174頁)といったくだりにはぐっときた。
また、坂口安吾丸谷才一小林秀雄批判のうちに深い愛を読みとったり(「愛することで、弱さが顕れるとしても」199頁など)、政治家や官僚たちの体験のリアリティが文学的表現や鑑賞の対象とならなかったことを嘆き(「感じるものにとっては、悲劇として」226頁)、イギリスのTVコメディの深い文学性を指摘するあたり(同236頁)や、長与又郎の「夏目漱石氏剖検」筆記に「ああ、ここに文学があった」と述懐するところ(「文学と科学の間に」259頁)などには、茂木氏の文学観が徐々に深化し広がりをもったものに変貌していくさまが覗き見られて少し心が躍った。
とりわけ私が惹かれたのは、漱石をめぐって綴られた次の文章である。

 意識を持ってしまった人間は、「反生命原理」と「生命原理」が交錯するところでしか生きられない。だからこそ、夏目漱石は私たちにとって特別な意味を持つ作家なのだろう。漱石こそ、もっとも反生命的な危険な精神の狂気の気配を漂わせつつ、しかしあくまでも生活の現場に踏みとどまろうとした、類い希なる文学者であったように、私には思えるのだ。
 普遍と個別の間の相克に悩む者が陥る病理、別の言い方をすれば「適応」として現れるのが、ユーモアのセンスである。ユーモアとは、個別と普遍の間の裂け目から吹き出す一種の狂気に他ならない。死すべき「個別」たる人間が、宇宙の「無限」やイデア世界の「普遍」とまともに向き合っていては、命がもたない。ユーモアの一つや二つでも処方しないと、やってられない。(「言葉の宇宙と私の人生」269頁)

クオリア降臨』は文芸誌連載という「制約」(茂木氏にとっては一つの「自由」をもたらす枠組みだったのかもしれないが)を離れて、むしろ漱石論として最初から書き下ろされるべきであった。
読後、つくづくそう感じた。
そういう意味では、この書物は来るべき作家・茂木健一郎にとってのスプリングボードなのかもしれない。


つづいて『脳の中の人生』読了。
読売ウィークリー」に連載された文章と6つの章のそれぞれの頭に置かれた書き下ろしの「考えるヒント」を収めたコラム集。
医学に基礎医学臨床医学があるように、脳科学にも「一人一人の人生の中で起こる具体的な出来事に脳の視点から向き合う「臨床脳科学」があってもよいのではないか」(まえがき「人生という具体の海に飛び込まなければならない」)。
これはほとんど茂木版「バカの壁」であり、茂木流「手入れの思想」の書だ。
これに、茂木氏いうところの「養老さん独特の、ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」(198頁)が加われば鬼に金棒だが、茂木健一郎養老孟司ほどにヒトが悪くない。
『ケータイを持ったサル』の正高信男が茂木健一郎を「多動症」と診断したと本書に書いてある(119頁)。
なるほど多動症では目が、いや腰が据わっていないわけだ。
それにしても、この人はほんとうに文章が上手い。この調子でいけば、政治や経済や経営のことを明快に論じることなど朝飯前だろう。
実際、本書には企業の研修会に呼ばれた経験を踏まえて「個人と組織の関係がどうあるべきか」と考える「あなたの会社は「野球型」?「サッカー型」?」が収められている。
脳科学者兼サイエンスライターとしての茂木健一郎ファンたる私としては、茂木氏にはこういう種類の文章を書いてほしくないのだが、それは茂木氏の勝手だろう。