考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(5)

余談をもう一つ。
郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を読んでいて、原理的(というより理路的)には『私家版・ユダヤ文化論』と同じ事柄が論じられているのではないかと思った。
私のいつもの悪い癖で、たまたまその時、同時進行的に読んでいる本の中身を勝手に結びつけてしまう「個人的奇習」がそう思わせているだけのことなのかもしれない。
あるいは、この本の帯に養老孟司の推薦の辞(「彼の話はむずかしい。でもその本気の思考が、じつに魅力的なのだ」)が印刷されていることからの連想にすぎないのかもしれない。
誤解なら誤解でも構わない。創造的誤解ということだってあるのだから。
読んでいるといっても、まだほんの入り口あたりを夢うつつで彷徨っているだけのこと。
「はじめに」と題されたたかだか10頁に満たない文章を繰り返し読んでいるうちに、そこで予告されている「マテリアル」という独特の概念の定義が、内田樹のいう「ユダヤ人」という概念と重なって読めてきた。
(正確に書いておくと、郡司のいう「マテリアルの影」が内田の「ユダヤ人」に重なって読めてきた。)


よくは判っていないのだが、郡司−ペギオ−幸夫いうところの「マテリアル」とは、どうやら「存在と認識の不適合」をつくりだし、かつこの不適合(時間の空間化、あるいは普遍的なものの一般化がもたらすところの論理的矛盾?)を「野生の感覚」(直観)をもって媒介する「何か」であり、かつ媒介される当のもの、あるいはそうした媒介性という概念そのもの(これもよくは判っていないけれども、どこか「コーラ」の概念を思わせるもの)、と定義できるもののようである。
(ちなみに、養老孟司との対談の中で内田樹は「僕も意識活動のズレというか、存在と認識の不適合のうちに知性の起源があると思っているんです」と語っていた。)
マテリアル(物自体)を人間の知性でもって十全に認識することはできない。
人間の意識のうちに表現(表象)される「モノ」は、必ずその「外部」(そのもの性、その「モノ」が身体である場合は「こころ」)をはらんでいる。
その「外部」は認識することはできないが、「認識ではないある種の直観、感覚」を通して感得される。
それは通常「リアリティー」と名づけられている。郡司氏はそれを「マテリアルの影」と呼ぶ。


◎「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。この二つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されることになります。」(6頁)


ここから先の郡司氏の議論を「理屈」として理解しようとすると、何が言いたいのかまるで判らなくなる。
そこに書かれていること自体(日本語で書かれた「モノ」としての文章)はもちろん文字通りに受け止めることはできるのだが、その「こころ」がなかなか「直達」してこないのである。
郡司氏は書いている。
「生命・意識とは何か」という問題は、生命や意識がそれを問いただす「私」に直接関与する概念だから、むしろより直接的に「私の生命・意識とは何か」という形で問いただすほうがしっくりくる。
「ところが、わたしは、私という一人称を前面に押し出すことに面映さ、ある種の恥ずかしさを感じます。(略)この面映さや、躊躇を伴わざるを得ないという様相が、生命や、意識という問題の核心をなしている。私はそう思っています。」(7頁)
ここに出てくる「わたし」と「私」の言葉の使い分けの首尾一貫性のなさがとても興味深いけれども、それは単なる誤植にすぎないのかもしれないので、この点は素通りする。続けて郡司氏は書いている。


◎「「私だけではない。他者は、世界は、実在する」このような感覚が、我がこととして血肉となること。他者、世界を実感すること。」(7頁)


◎「原理的に世界の中心にいることしかできず、その意味で特権的でありながら、同時に、自分の自由にならない世界内にあって、これを受け入れるしかない。意識は能動的でありながら、世界の内側に置かれてしまっているという受動性を併せ持つ。私の、という一人称が面映いのは、あたかも、私の存在の引き受ける受動性を無視し、窺い知れない世界との接触に関するリアリティーに、まったく言及していないように思えるからでしょう。いや、むしろ、リアリティーというものを感じ、理解することの困難さに留意しない、感受性の欠如に、しっくりこない感じを抱くのかもしれません。
 すると、この面映さ、一人称を強調する気恥ずかしさの感覚は、世界内存在という存在形態を直観するもの、ではないでしょうか。世界・内・存在は、世界に対する私の能動性と、世界に生かされる受動的な私の齟齬と動的調停を示唆する意味で、生命や意識の核心を成します。面映さが直観するものは、これなのです。」(8-9頁)


◎「世界から受ける受動的な刺激と、私が能動的に創り上げる表象。この二項対立は、モノと言葉、トークン(個物)とタイプ(類)、世界と観測者の対立です。」(10頁)


ここで私は躓く。
モノとこころ、モノとその外部、表現とその外部、これらの二項対立(先に私はそれを、内田樹の言葉を借用して「存在と認識の不適合」=脳活動と意識活動の間のズレと同類視した)と、いま出てきた「モノと言葉」以下の二項対立との関係がよく判らなくなる。
郡司氏が使う「モノ」という語の意義が、というよりその「モノ」が置かれている場面、立ち位置がまるで異なっているのではないかと思うのだ。
モノとこころ。モノと言葉。
どちらの二項対立も、マテリアルすなわち「通約不可能でありながら調停される関係にある媒介性」(11頁)によって動的に調停=媒介され、「二つが共立するということ、両者が場合によっては矛盾するにもかかわらず同時にそこにある、という様相」(同)がもたらされるというのだから、理路としては同じものである。
だから、こころと対比されるモノと、言葉と対比されるモノは、同じ「モノ」でも意味が違う。前者のモノは認識の対象(「私」が能動的に創り上げる表象)だが、後者のモノは外部=世界=存在にかかわるリアリティー(受動的な刺激=マテリアルの影=野生の感覚によって感得されるもの)のことだ。
このあたりの言葉の使い方の一貫性のなさは、実は意図的なのではないかと私は勘ぐっている。
言葉の意味の動的な変転。
そうだとすると、同じようなことが今度は「言葉と記号」といった二項対立のうちに反復されて、そこでは「言葉」はリアリティーの影を纏うことになる(ユダヤの神秘思想のように?)。
そしてさらに「記号とX」云々と続く。


話がすっかり横へそれてしまった。本題を見失いかけている。
私がここに記録しておきたかったことは、郡司−ペギオ−幸夫のいう「一人称を強調する気恥ずかしさ、面映さの感覚」と内田樹がいう「ユダヤ的知性(端的に知性そのものの)」とはオーバーラップしているのではないか、ということだ。
なぜ私はそのように考えたのか。そのことを縷々書き連ねるつもりだったのだけれど、今日は気分が乗らない。


     ※
以上に書いたことと関係があるのかないのかよく判らないのだが、「ユダヤ人とは誰のことか?」と題された『私家版・ユダヤ文化論』の第一章に気になる記述がある。
簡潔に要約するのが面倒なので、いたずらに長くなるけれど全文を抜き書きしておく。
文中にラカンの引用が出てきて、その中に「受動的」態度と「能動的」態度の対表現が出てくるが、気になると書いたのはそのことではない。

ヨーロッパ世界は歴史のある段階で「ユダヤ人」という概念を手に入れ、その記号によってはじめて分節できたところの前代未聞の意味に出会った。以後ヨーロッパの人々はさまざまな類カテゴリーを渉猟してきたが、ついに「ユダヤ人」に代わる記号を見つけ出すことができなかった。私はそういうふうに考えている。
 使える言葉がそれしかないので、(うまく定義できない言葉であることを分かっていながら)仕方なくそれを使うしかない言葉というものが存在する。「男と女」がそうであるし、「昼と夜」もそうだ。私たちはその語を毎日のように使っているが、改めて、「昼」そのもの、「夜」そのものを、厳密に定義せよと言われても、そんなことは誰にもできない。私たちは、「昼」を「夜ではないもの」として、「夜」を「昼ではないもの」として差異化する因習のうちに抜け出しがたく嵌入しているからである。一度、「昼/夜」という二項対立で世界を分節した言語集団の人々は、それ以後はもう決して、「夜抜きの昼」とか「昼抜きの夜」を概念として取り出すことができない。(略)
 ジャック・ラカンはこの点について卓見を語っている。
「男とか女とかいうシニフィアンは、受動的態度と能動的態度とか、攻撃的態度と協調的態度といったこととは異なるものです。つまりそのような行動とは別の次元のことです。そのような行動の背後に間違いなく或るシニフィアンが隠れているのです。このシニフィアンは、どこにも決して完全には具体化されませんが、『男』、『女』という語の存在の下で最も完全に近い形で具現化されるのです」
 ラカンはここで「命名されることで事象は出来する」という構築主義的命題を棒読みしているのではない。すべての言葉は、「隠されたシニフィアン」の言い換えだと言っているのである。間違えずに読んで欲しいのは「隠されている」のは「シニフィエ=意味されるもの」ではなく、「シニフィアン=意味するもの」だということである。どこかにそれを発見すればすべてのシニフィアンの意味がわかる「究極のシニフィエ」があるわけではない。私たちが記号の起源を遡及して最後にたどりつくのは、「もうそこにはないものの代理表象」だということである。(略)
 ラカンはこう続けている。
「昼と夜、男と女、平和と戦争、こういう対立は他にも幾つでもあげることができます。これらの対立は現実的な世界から導き出されるものではありません。それは現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ、その中に人間が自らを再び見出すようにする、そういう対立です」
(略)
 この[「ユダヤ人と非ユダヤ人」という]二項対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはそれまで言うことのできなかった何かを言うことができるようになった。けれども、その「何か」は現実界に実体的に存在するものでもない。それはある「隠されたシニフィアン」を言い換えた別のシニフィアンに他ならない。けれども、「ユダヤ人」というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。(52-55頁)