考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(6)

前回、郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学』に登場する「マテリアル」の概念に関して、その同義語として「物自体」という(カント由来の)語彙を使った。
郡司氏自身も「モノそれ自体」という言い方で、単なる素材性を超えたマテリアルの特質を説明しているのだから、それほど的をはずしてはいないと思う。


「うん、僕が言いたい、モノそれ自体ってそんな感じだね。通常、素材、材料、モノって可能なものにおける現実的制限で、実現可能・不可能の図式そのものだよね。実現可能・不可能の区別と独立に存在したり、区別と対峙するような第三項としては決して機能しない。(略──ここで、質料とは「可能・不可能に対する第三項で、両者の違いを無効にする媒介者」であるといった議論が展開される。)
 なんか、質料が実現可能・不可能の区別を無効にする、という過程は、あらかじめ存在してわかっているものじゃない、ってところが重要なんじゃないかな。事後において、はじめてわかる。」(27-28頁)


このあたりはどこかベルクソンを思わせる(例の「コップ一杯の砂糖水を作りたいとすれば」云々)。
それはともかく、「あらかじめ存在してわかっているものじゃなくて、事後において、はじめてわかる」というところは、途方もなく重要な点だと思う。
時間性とか聴覚性とか意識とかユダヤ的知性とかがまるごとこれに関連してくるのではないかと思う。
が、いまはそのことを詳しく論じている時ではないので、もう一つ、郡司氏の議論がカントを想起させる場面を取り出しておく。
といっても、「意識は能動的でありながら、世界の内側に置かれてしまっているという受動性を併せ持つ」がどこかカントのアンチノミー連想させるという他愛のないもので、だからどうということもなく、この話題はこれ以上発展しない。
ここで唐突にカントの名をだしたのは、『私家版・ユダヤ文化論』の議論を池田雄一著『カントの哲学──シニシズムを超えて』にひきつけてみたかったからだ。
たとえば、『判断力批判』をとりあげた第三章の冒頭に、趣味判断が味覚の隠喩にもとづいていることを論じたくだりがある。
視角、聴覚に対して味覚がどういう立ち位置にあるのかということも興味深いが、それはともかく、池田氏は続けて味覚の二重性を論じている。
すなわち、味覚とは「一方で身体的かつ受動的な感覚であり、他方では精神的かつ能動的な感覚だ」(146頁)というのである。
このあたりのことなどを手がかりにして、前回までの話題に接続し、ひいては池田氏が描写するところのカントの世界(世界を美学的に見るときにあらわれてくる様相)と「ユダヤ人」の意識世界、レヴィナスの倫理などを比較してみると面白いと思ったのだが、今回もまた気が乗らず、この話題はここで終わる。


     ※
以前、『カントの哲学』を一気読みして以来、なかなかこの本に「決着」がつけられなくて、心のどこかでずっと気になっていた。
けっこう集中して、かなりの刺激を受けながら読み進めていたのに、読後、その印象が散漫なものになってしまったのだ。
大胆な読解を、批判をおそれることなく繰り出していながら、最後の最後になってその気迫がしぼんでしまったように思えた。
読み手の側の集中、緊張がとぎれて、なにか肝心なところを読み飛ばしてしまったのではないかと気になっていた。
昨日、今日と最初から読みなおしてみて、やはり同じ印象をもった。
著者は肝心なことを語っていない。
そもそも「それ」を語る言葉などないのかもしれないが、そうであればこそ、語り得ないという事態そのものにもっと肉薄してもよかったのではないか。
しかし、それはもはや「カントの哲学」の射程外だということかもしれないし、そう思うならおまえがやれと逆襲されそうなので、以下、さきの「印象」のよってきたるところについて書いてみる。


カントの三批判書を「仮設に仮設を継ぎたして創られた、まるで九龍城のような建物」あるいは「大地震のあとの廃墟」と譬え、「この建築物の不完全性には、なにか重大な意味が隠されている」、そしてカントのテキストは「それが何のために書かれているのかわからない書物として読むべきである」と啖呵を切る序文が素晴らしい。
カント哲学のエッセンスを一瞬一瞬に見切っていくこの威勢のよさ、あるいは独学者の覚悟をもってカントを「サクッと」(あとがき)読み通した余韻がもたらす初々しい息づかいは、本書の要所要所に顔を出して作品のリズムをかたちづくっていく。
また、たとえば同じ序文で映画『マトリックス』を取り上げ、その物語世界とカントの批判哲学との親和性を論じている(「自分たちの住む世界が、人工的に構造化されている、という世界観はカントからはじまっている」)ように、「映像の時代」(117頁)もしくはヴァーチャルなメディア空間(80頁)の時代、そしてポスト冷戦期の消費社会を生きる現代資本制下の感受性や欲望、思想や政治の状況に関連づけて、カントを道具として、軽々と読み囓っていく手際は見事だ。
実際この書物の読みどころは、細部の考察のうちに縫い込まれた潔い断言と、そこに無造作に取り入れられた多彩な素材(おそらくはカントを読んでいた時に著者がたまたま想起したか、その周辺で目にし耳にした映画や論考や思想書)を部品として、本書のキーワードを使えば「目的なき合目的性」を意識しながら緻密に組み立てていった論述の鮮やかさにある。
それは哲学書としては当然の作法なのだが、しかしその一方で、それらの細部がたたえる魅力に比して論考全体の印象がずいぶん中途半端なものに見えてしまうのである。
そこで「主張」されているのは、要するにこういうことだ。
カントの批判哲学はシニシズムを帰結する。
しかし同時にカントから「シニカルな時代における行動の原理、シニシズムの対抗原理」(98頁)を読みとることが可能だ。
その転回は、あたかもプトレマイオスの天動説から「趣味判断」(「身体を中心とした理性の使用方法」122頁)をもってコペルニクスの体系にシフトするようにしてなされる。
このコペルニクス的転回の第二弾を敢行するための具体的方策は、カントを第三批判書から読み解くことである。世界を美学的に見ることである。


《カントは『判断力批判』のなかで、人体に対しても、それを何に使ったらいいのかわからない道具としてみる必要があると述べている。カントにとって美学的に世界をみるということは、世界を廃物として眺めるということを意味するのだ。このことは、世界を美しい仮象、スペクタクルとして鑑賞するということを意味するわけではない。》(序文,17頁)


著者はカントの著書を「廃墟としての建築物」に譬えた。
建築物とは「それ自身が世界であるような道具」(191頁)であった。
つまり、著者が言っているのは、カントの三批判書を「美しい仮象」として鑑賞するのではなく、「何に使ったらいいのかわからない道具」として眺めること、具体的には、カントを第三批判書から読み直すことである。
そのことが、「構想力の逆転写」すなわち「対象、その表象から図式、そして悟性的概念へと、判断が逆流する」(193頁)可能性をひらいていくということである。
本書が全体として中途半端な印象を与えると先に書いた。
その印象は、叙述の対象(三批判書)そのものに自ら(シニシズムの対抗原理)を語らせようとする著者の叙述の方法がもたらしたものだろう。
批判哲学に対する批判を当の批判哲学自身に敢行させること。
実体的なものとして「目的」を語ることによって「目的なき合目的性」そのものの生の感触が消失してしまうことをおそれての戦略だったのだろう。
あるいは、カントの三批判書を最後から読み直すことでもってあぶりだされる新しい主体、新しい自由(さらにいえば新しい時間、新しい神)の可能性とそれを実体的に語ることの不可能性との両面を、叙述の全体でもって示したかったということなのかもしれない。
本書末尾の次の文章に心底衝撃を受けるか、それとも単なる舌足らずなほのめかしと受け止めるかは、読者がそのことを自らの構想力のはたらきでもって確認できたかどうかによる。


《自分の手足を、何かの技術の産物のようなものとして眺めること。それは自己の身体を、解体され廃棄されたサイボーグの身体=部品としてみることを意味している。自分の、他人の手足が、いったい何のためにあるのか。それらのパーツに、合目的性を見出すこと。それは対象への過度の転移という事態をも引きおこすだろう。しかしそれはいったい誰への、何への転移だというのか。趣味判断の主体はいったい誰なのか。判断をくだす当人なのか、それとも彼に憑依した不可視の誰かの意志なのか。カントにとって世界を美学的に見るということは、世界を怪物と化したサイボーグとして注視し、その声にならない機械音に耳を傾けるということだったのではないだろうか。》(第三章「出来損ないのサイボーグ、そして構想力の革命」,195頁)