考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(7)

そろそろ「決着」をつけておこう。
日々だらしなく書物を読み齧り読み流すなかで、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』だけは例外的にふやけきった私の脳髄に刺激を与えてくれた。
そこからこの「連載」は始まったのだが、肝心の『私家版・ユダヤ文化論』から話題がどんどん拡散していき、着地点を見失ってしまった。
この、「無謀な着想」(55頁)や「驚くべき」思弁的仮説(182頁)や「めまいのするような仮説」(199頁)が鏤められた書物を、もう一度最初から読み直してみるならば、おそらくそこからまた別の「シリーズ」が生まれてくることだろう。
今回、長い「終章」のなかの「結語」と題された一節をあらためて拾い読みして、とりわけそこで紹介されているレヴィナスの特異な思考(ホロコースト後の弁神論)を、それがどこまで可能であったかどうかはともかく追思考(追体験)するように熟読してみて、そこに記された「理路」に躓くことでしか、私自身の知性は働かず、思考は開始されないのだということをおぼろげながら実感できたような気がする。
そして同時に、私の知性といい私の思考というときの当の「私」は、もはや「ヨーロッパ文明があらゆる体験の基礎にすえていた観照的主体」もしくは「ヨーロッパ・ローカルの思考上の奇習」(232頁)にすぎないそれではもはやないだろうということも。
さらに言えば、「外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人」を「日本のフルメンバー」にカウントする習慣を持たないという、世界のマジョリティと共有する「民族誌的奇習」(14-15頁)、そして「夾雑物なき純良な国民国家のうちに国民が統合されていることが「国家の自然」であるという日本人の願望(あるいは妄想)」(91頁)のうちにたち現れる「日本人」や「国民」ではありえないということも。
(昨日とりあげたカント的世界、正確に言えば池田雄一によって切り出された、「理論」ではないひとつの「態度」=生き方を通じて見られる世界の様相と、ユダヤ的知性、というより知性そのものの起源をとりまいていた世界の実相。この両者の関係が、やはり気になる。)


《そのつどすでに遅れて登場するもの。
 この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(というより端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
 この言明と、前節の最後に記した、[反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか? どうしてそれは「特別の」と言われるのか? それは]「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた[から]」という言明の二つを併せて読んで頂ければ、私が本書で言いたかったことはほぼ尽くされている。》(213頁)


《驚くべきことだが、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。レヴィナスはたしかにそう言っている。
 私はこの「アナクロニズム」(順序を反転したかたちで「時間」を意識し、「主体」を構築し、「神」を導出する思考の仕方)のうちにユダヤ人の思考の根源的な特異性があると考えている。
 この逆転のうちに私たち非ユダヤ人は自分には真似のできない種類の知性の運動を感知し、それが私たちのユダヤ人に対する激しい欲望を喚起し、その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意が道具的に要請される。
 ユダヤ的思考の特異性と「端的に知性的なもの」、ユダヤ人に対する欲望とユダヤ人に対する憎悪はそういう順番で継起している。》(217-218頁)


ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する。この屈折した弁神論は、フロイトの「トーテム宗教」ときれいに天地が逆転した構造になっている。
 勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位に踏みとどまるがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない。ここには深い隔絶がある。
 この隔絶は「すでに存在するもの」の上に「これから存在するもの」を時系列に沿って積み重ねてゆこうとする思考と、「これから存在させねばならぬもの」を基礎づけるために「いまだ存在したことのないもの」を時間的に遡行して想像的な起点に措定しようとする思考の間に穿たれている。別の言い方をすれば、「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、「私は遅れてここにやってきたので、〈この場所に受け容れられるもの〉であることをその行動を通じて証明してみせなければならない」と考える人間の、アイデンティティの成り立たせ方の違いのうちに存在している。》(228-229頁)