「耳と心」でたどる日本宗教芸能史──山折哲雄『「歌」の精神史』

「歌」とは身もだえする語りである。
「ひとり」をめぐる感受性と情調の千年におよぶ歴史のうちに育まれた伝統的な「叙情という名の魂のリズム」(41頁)である。
「ひとり」とは外来語としての「個」に対応するひびきをもつ大和言葉で(121-122頁)、「魂鎮め」や「魂乞い」というときの魂のことだといっていいだろう。
「歌」には、実人生へのリアリズム感覚に裏打ちされた深く清冽な情感(悲哀感)が湛えられている。
中世という「聴覚の時代」(79頁)に淵源する「無常観と生命の昂揚感」(216頁)の伝統が流れている。
この魂の律動、生命の律動を聴き取るには「耳と心」(93頁)をもってしなければならない。
それでは今日、日本の詩歌の世界にかつてのような叙情の息吹や香りを感ずることができるだろうか。
著者は美空ひばりの死とともに、いやそれに先んじて叙情はすでにアスファルトのように乾ききっていたと嘆じる。
宗教的世界観(無常観)と叙事的文学(生命律)を分離し(77頁)、歌唱の伝統に背を向けてテキストの内部に自閉する(91頁)ひからびた知性の跋扈が、この惨状をもたらしたのである。
それは「語りを忘れた人文学」(65頁)が陥った衰弱と対をなす現象でもあった。
こうして人文学者・山折哲雄による、日本文化の「遺伝子」あるいは「ウィルス」(50頁)ともいうべき「伝統的な生命リズム」(43頁)の系譜をめぐる探求が開始される。
萩原朔太郎を介して古賀政男石川啄木が並置され、啄木から西行へ、西行から親鸞の和讃へ、そして今様歌謡などの法悦文芸へと、「叙情の源流」(109頁)を尋ねる旅は遡行していく。
その過程で挽歌と相聞歌の同質性や釈教歌の意義(道元における歌の切実さ)が明らかにされ、最後に、瞽女唄と盲僧琵琶の調べを経て北原白秋の童謡へと降る。
歌唱の伝統のうちに息づく「歴史の旋律、精神の鼓動」に寄り添いながら、著者の筆致は時に軽やかに、時に沈痛に、そして演歌、歌謡曲、童謡の歌詞が引用された箇所ではおそらく自ら節をとり唄いながら、自在に進んでいく。
とりわけ「流離と放浪のなかで浮沈をくり返す盲人の精神史」をあつかった章では、著者は静かに高揚している。


「芸能と信心が未分化のまま支え合う哀感の歴史、といってもいい。瞽女の唄と語りのかなたから能の詞章が蘇り、浄瑠璃常磐津のリズムがきこえてくる。中世の和讃や今様の旋律までがひびく。」(178頁)


小林ハルさんの瞽女唄と永田法順さんの盲僧琵琶の語りが、一瞬、そのような長い長い宗教芸能史の起伏に富んだ流れをわれわれの眼前に蘇らせてくれるのだ。小林ハルさんの瞽女唄語りも永田法順さんの釈文語りも、それをきけばわかるように感傷の涙に曇らされることのない強い響きと鋭い感情表現をもっている。物語の主題をみすえた対象把握の全身的な構えは、おそらくそのきびしい盲目の生活体験によってきたえられ培われたものであったにちがいない。
 現代の歌謡や詩歌からはすでに見失われてしまった叙事的な哀感の調べが、そこにはわずかに流れつづけているように思えてならないのである。」(191頁)


雑誌連載という出自がもたらした制約とそれと裏腹な表現の自由度が、著者をして新しい人文学の書を書かしめた。
あとがきにいう「瓢箪から駒」とは、おそらくそのことだ。
「思索と体験が出会う究極の到達点」(141頁)。
道元の歌に寄せて語られたこの言葉は、「耳と心」でたどる宗教芸能史という人文学の新しい語り方(親鸞の和讃に匹敵する)を的確に形容している。