『記憶と生』(第4回)

週に一度、時間にしてほぼ1時間程度、ベルクソンの『記憶と生』を熟読する。
二ヶ月あまりの中断を経て、その習慣が甦ってきた。
レヴィ=ストロースの『神話論理』とヒッチコックトリュフォーの『定本 映画術』を夜ごと眺めては、ベルクソンの読書体験への接続をはかっていく。
ほとんど記憶からとんでいたこの「戦略」も、最近になってようやく忘却の淵から甦りかけている。
先週までで、第1章「持続と方法」の第1節「持続の本性」を再読し、昨日、第2節「持続のさまざまな性格」を通読した。
その最後に「持続、それは絶対である」という『物質と記憶』から切り取られた文章(通し番号10)があり、そこに「連鎖の両端」という語が出てくる。


《音は静寂と絶対的に異なっており、ひとつの音は別の音と異なっている。光と闇の差異、さまざまな色彩の間、さまざまなニュアンスの間の差異は、絶対的なものである。或るものから別のものへの移行は、それ自体が絶対的に実在する現象なのだ。したがって、私は連鎖の両端を捉えているのであって、その一方は私のうちの筋肉感覚となり、もう一方は私の外部にある物質の感じうるさまざまな質となる。いずれの場合でも、もしそこに運動というものが在るのなら、私はその運動を単なる関係として捉えはしない。なぜなら、それはひとつの絶対だからである。》(33頁)


この箇所は、第四章に出てくる「知性の全体像」(通し番号67)という『創造的進化』から切り出された文章と響き会っている。


《したがって、私たちは、鎖の両端の輪を掴んでいるが、そのほかのたくさんの輪は捉えるに至っていない。それらは、いつまでも私たちの手から逃れるのだろうか。私たちが定義するような哲学は、まだ自分自身を完全には意識していなかったと考えねばならない。物理学は、それが物質を空間性の方向に推し進める時には、自分の役割を理解している。しかし、形而上学が、まったく単純に物理学の後追いをし、同じ方向でもっと遠くに行きたいと空想していた時、一体自分の役割を理解していただろうか。反対に、形而上学に固有の努めは、物理学が降りて来た坂道を登ること、物質をその起源に連れ戻すこと、もしこう言ってよいなら、逆向きにされた心理学であるような、ひとつの宇宙論を漸進的に形成していくことではないだろうか。》(199-200頁)


ここに出てくる「鎖の両端」という言葉は、「或る体系をそれより大きい別の体系に結びつけるさまざまな糸」(19頁)という語とも響き会っている。
この語は「心理学を超えて:持続、それは全体である」(通し番号3)に出てくる。
そこでベルクソンは、科学は徹底して物質を孤立化させるが、それは研究の便宜のためであって、いわゆる孤立した体系が外側からのいくつかの影響(糸)に左右され続けることを暗に認めていると書いている。
この孤立化は太陽系に達して完成するが、それとて孤立化は絶対的なものではない。


《それを宇宙の他の部分に結び付けている糸は、たぶん極めて細い。けれども、宇宙に内在する持続が、私たちが生きる世界の取るに足らない小片にまで伝わってくるのは、この糸を通してなのだ。
 宇宙は持続する。時間の性質を掘り下げるほど、いよいよ明らかになってくることは、持続とは発明であり、形態の創造であり、絶対的に新しいものの絶え間ない生成だということだろう。科学によって限定された諸体系が持続するのは、ただそれらが宇宙の他の部分に分かちがたく結び付いているからに過ぎない。実際、あとで述べるように、宇宙それ自体のなかでは、対立する二つの運動が区別されなくてはならない。そのうちのひとつは〈下降〉であり、もうひとつは〈上昇〉である。》(19-20頁)


今回は、素材の抜き書きのみ。
ここで以前、『物質と記憶』を読みながら、この書物でベルクソンはまったく新しい「物質の理論」を構想し、その予備的考察を行っている、つまり『物質と記憶』にはまだベルクソンの物質の理論は書かれていない、と考えたことを想起している。
郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』が、その「未完」の物質理論に挑んでいる。