『物質と記憶』(第14回)

物質と記憶』独り読書会。いよいよ第三章「イマージュの残存について──記憶力と精神」。
今日は冒頭の二節、「純粋記憶」と「現在とはなにか」を読んだ。
ここに書かれていることは、実はもうすでに知っている。
ベルクソンの叙述の進め方そのものが、叙述の内容をかたどっているからだ。

まずそれは私の過去にくい入っている。「私が語っている瞬間は、すでに私から遠ざかっている」からだ。またそれは未来にもくい入っている。未来へこそ、この瞬間は傾くのであり、未来へこそ、私は向かうのであって、もし私にこの不可分の瞬間、すなわち時間の曲線の無限小を、確定することができるものならば、未来をこそそれはさし示すであろう。だから、「私の現在」とよぶ心理的状態は、同時に直接的過去の知覚でもあり、直接的未来の限定でもあるのでなくてはならない。(156頁)。


ベルクソンは「これほど簡単で明白な、つまるところ常識の思想にすぎない真理を、どうしてひとは見誤るのだろうか」(157頁)と嘆き、「いさぎよくあきらめることが肝心である」(159頁)と「ひと=大方の心理学者」に最後通告をつきつけている。
感覚(知覚)と記憶との本性上の違いを見極めよというのである。
(これと同様の異議申し立ては、実はすでに第一章で、実在論と観念論に共通する錯覚、すなわち知覚と思弁的関心=純粋認識との質的同一視に対して差し向けられていた。32頁)

しかし、記憶と知覚との間に程度の差しか設けないという幻想は、たんなる連想説の帰結より以上のもの、哲学史上の一偶発事より以上のものである。それは深い根をもっている。それは、根本においては、自然と外的知覚の対象にかんする偽りの観念に基礎をおいているのだ。ひとは知覚に、純粋な精神のためのたんなる教示しか見ようとせず、これをまったく思弁的な関心をもつものとのみ見なそうとする。ところで、記憶はもはや対象をもたぬ以上、それ自身、本質上、この種の認識であるところから、ひとは知覚と記憶との間に程度の差しか見いださず、知覚は記憶を押しのけて、ひたすら強者の法律により、私たちの現在を構成するようになる。しかし、過去と現在との間には、たんなる程度の差より以上のものがある。私の現在は私の関心を占めているもの、私にたいして生きているもの、要するに私を行動へと促すものであるのに、私の過去は本質的に無力である。この点にとくに注意しよう。私たちが「純粋記憶」とよぶものの本性は、現在の知覚とそれを対比することで、すでにずっと理解しやすくなることだろう。(154-155頁)

これを読んで私は、中島義道さんの『時間を哲学する』を想起した。

いきなり宣誓しますが、私は知覚ではなくむしろ想起こそ「心身問題」のモデルだと思っております。それをみな知覚の場面で論ずるから、答えられないことになる。心身問題の原型は想起、すなわち「刻印」というブラック・ボックスにおける現在と過去との関係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こす張本人である「時間」は消去されてしまい、大脳の〈ウチ〉に想起の「場所」を求めるというあたかも空間論のようなかたちをとってしまうのです。(『時間を哲学する』101-2頁)

     ※
今日読んだところは上に引用した文章に尽きているが、二、三思いあたったことを書いておく。


その一。流れと切断について。
「私の現在は、本質上、感覚=運動的なのである。これはつまり、私の現在が、私の身体についてもつ意識にあるということである」(156頁)。
この命題を提示したあとで、ベルクソンは(伝導体としての)身体をめぐってこう書いている。
「現実そのものである生成のこの連続の中で、現在の瞬間というのは、流れていく流体に私たちの知覚が行なうほとんど一瞬の切断からなるものであり、この切断こそまさに私たちが物質的世界とよぶものなのだ」(157頁)。
これを読んで、木村敏さんの「一人称の精神病理学へ向けて」(『関係としての自己』)を想起した。たとえば次の文章([]内は引用者)。

時間性という観点から観れば、ヴァーチュアルで非人称的な自他未分の状態は、いわば時間以前の相のもとにある。一方リアリティとしてノエマ化された[三人称的な]自他分立の状態は、そのつどすでに分離の成就した現在完了的なあり方を示す。そして前者から後者への移行そのものであるアクチュアルな[一人称的な]発生期状態は、つねに瞬間的かつ現在進行的という一見矛盾した時間性格をもっている。このアクチュアルな生成過程が、ヴァーチュアルで前時間的な状態からリアルな完了態[物質的世界]へのそのつどの移行であるかぎり、それは、このヴァーチュアルな状態からつねに一瞬遅れて経験される。(『関係としての自己』257頁)


補遺。『関係としての自己』の最後に収められた「未来と自己」に、ヴァイツゼカーの「プロレプシス(Prolepsis)」という概念が紹介されている。
それはあらゆる生きものが非意識的で身体的・生理的な仕方で未来を先取りする機能を指している。
冒頭に書いた「ベルクソンの叙述の進め方そのものが、叙述の内容をかたどっている」にも関連してくると思うので、抜き書きしておく(本を書く=読むことと生きること)。

有機体の感覚運動機能によって環境世界との生命的な関係が一貫して維持されている状態を、ヴァイツゼカーは「相即」と呼ぶ。有機体と環境との物理的な関係は絶え間なく変化しているから、相即はそのつど新たに作り直す必要がある。有機体が相即の中断という「危機/転機」をそのつど乗り越えて、環境世界との関係を維持しているかぎり、有機体は「主体」として環境世界と対峙して生き続けることができる。そしてこの相即は、有機体が過去をそのつど現在に組み入れてゲシュタルトを構成するアナムネシスと、絶えず未来を先取りするプロレプシスの機能によって維持されている。(『関係としての自己』277頁)


その二。数学について。
「すでに流れた時間は過去であり、時間が流れつつある瞬間を、私たちは現在とよぶ。しかしここで問題なのは、数学的点ではありえない。なるほど、たんに考えられるだけの観念的現在というものもあって、過去と未来とをへだてる不可分な境界をなしている。しかし現実の、具体的な、生きられる現在、私たちが過去の知覚について語るときに語っている当のもの、これは必然的に持続を占めるものだ」(155頁)。
ここに出てくる「数学」という語が気になる。
数学とはマテーシス、つまり「誰でも知っていることを間違いのないはっきりとしたことばで語ること」である(中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』からの受売り)。
だとすると、数学には二種類あるのではないか。
数直線上の点としての現在(「観念的現在」)にかかわる数学と「常識の思想」が教示する現在(「持続」)にかかわる数学。
「流れ」の数学と「切断」の数学。具体的な数学と抽象的な数学。
ベルクソンと数学は、『物質と記憶』独り読書会の中心的テーマの一つだ。


その三。純粋という言葉について。
純粋知覚や純粋認識をはじめ、「純粋認識」(32頁)から「純粋感覚」(158頁)まで、『物質と記憶』には純粋という言葉がいたる箇所に出てくる。
このことに関連して、檜垣立哉さんが『西田幾多郎の生命哲学』序章の「西田の思考の世界的同時性」をめぐる文章(22頁〜29頁)のなかで、19世紀から20世紀のはじめにかけて生じた「世界水準での思考の転換」を徹底化もしくは「生を、経験を、事象を「純粋」にとらえる衝動」と規定していることが参考になる。
(同趣旨の議論が、土屋恵一郎さんの『社会のレトリック』にも出てきた。)
檜垣さんはそこで、純粋化とは「哲学を純粋に、はじめから再開しようという企て」であり「純粋な何かに帰還して、世界をはじめから語りだすという発想」であると書いている。
しかし、そうした企てや発想は「いずれそれら自身の問題設定の素朴さや意地不可能性を反省せざるをえないだろう」とも。
ベルクソンの批判的継承者としてのドゥルーズ