界面の思考──『関係としての自己』『偶然性の精神病理』

木村敏の『関係としての自己』と『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫)を読了。
『関係としての自己』を買ったのが5月末のこと(副読本として『偶然性の精神病理』を買ったのは7月の頭)だから、もうかれこれ半年ちかくかけて読み終えた。
じつに濃厚な時間だった。
木村敏の文章には、つねに既読感を覚える。
実際、書かれている事柄、臨床事例にせよ、ヴァイツゼカーやブランケンブルクニーチェの引用にせよ、木村独自の思索展開にせよ、それらの話題はこれまでから何度も何度もくりかえし著書でとりあげられてきたものがほとんどだ。
微妙な言い回しや使用された概念の風味のようなものの違いはあっても、そして、アクチャリティとリアリティの概念の差別化など、その論考がしだいに精緻・精妙化され、事の実相に肉迫する迫力は冴えわたっていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音・執拗低音)はつねに変わらない。


木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考」となろうか。
鷲田清一が『偶然性の精神病理』の文庫解説で「差異の思考、〈あわい〉の思考」(239頁)と呼ぶものがそれである。
坂部恵が『モデルニテ・バロック』で「betweenness-encounter」と訳した「あわい」。
そこにおいて関係が関係それ自身に関係するところの「あわい」=界面。
そこから立ち上がるもの、浮かび上がるもの、あるいはそこにおいて現象するものが「自己」であり「主体性」であり「時間」であり「クオリア」である。
これらのことを見事に表現し、さらには『偶然性の精神病理』から『関係としての自己』への導管の所在を的確に指摘した鷲田清一の文章を引く。

ところで、〈偶然性〉は contingence/contingency という。con-tangere、つまり「ともに‐ふれる」ということである。そうするとこれは、偶然性と触れ(接触であり触覚である)の関係という問題、そして「ふれる」とは触れるであり振れる(気がふれるというときの、そう「こころの病」としての「ふれ」)でもあることになる。木村氏は、〈いのち〉というものを、生命一般が個々の生存へと個体化されてゆく過程で、それとそれでないものとの「界面」として現象すると考えようとしている。ちょっとこみ入った言い方をすれば、そういう界面の生成そのものを、自己表象として自己を隔てる意識の出来事と、自己触発として自己にふれてゆくより根源的な身体の出来事との緊張関係のなかで問いただそうとしている。本書の議論の向こうには、〈偶然性〉をめぐるそんな問題が広がってもいる。(鷲田清一「〈偶然性〉の思考」,『偶然性の精神病理』242-243頁)


「あわい」としての界面。それは森岡正芳(『うつし 臨床の詩学』)がいう「中間世界」につながっていく。
そして形而上学と生物学が出合う界面は、木村臨床哲学がよって立つ場所(臨床)であり、同時にその行き着く先を指し示しているだろう。
『関係としての自己』の最後におかれた文章を引く。

従来の「古典的」な西欧の哲学は、プラトンイデア論アリストテレス形而上学の流れを継承して、ある意味で「唯心論的」あるいは「観念論的」な立場を堅持してきた。デカルト主義的な二元論も、哲学固有の形而上学的営為から物質的自然の法則性についての探求を分離する効果しかおさめなかった。現象学的哲学ももちろんその例に洩れない。これに対して近年の神経科学・認知科学に定位する科学哲学は、意識的・精神的な現象のすべてを脳・神経機構に還元することによって、「唯物論的」な一元論を指向している。「心」や「自己」は物質過程の淡い影にすぎないということになる。


これに対してわれわれの立場は、意識に代表される心的・精神的な事態も、脳に代表される身体的・物質的な諸過程も、いずれも人間が個別的な生を「生きる」ために「生それ自身」という最終的な審級に根ざしているという事実から派生した二次的な現象にすぎず、デカルト的二元論の真の克服は「生の一元論」によって達成する以外ない、というものである。二元論はそれ自体、「生きている」という原初的な事実が物心両面の現象界に投影された幻影にすぎない。


となると、ここであらためてメタピュシカとピュシカとの、形而上学と自然(科)学(それはわれわれの場合には生物学ということになるだろう)との再接合が求められなくてはならないのではないか。真実はこの両者の「あいだ」にこそあるのではないか。(『関係としての自己』299-300頁)


     ※
まだまだ書いておきたい事柄が残っている。汲めども尽きない。
汲み上げて、共感であれ違和感であれ、その実質を自分なりの言葉で考えたいテーマは無尽蔵といっていいほど残されている。
ここではその一つ、これだけは見逃せない指摘を取り上げる(ただし、取り上げるだけ)。
それは、もう一人の「偶然性」の思考者パースについて書かれたものだ。

語の意味が記号としての語そのものにアプリオリに含まれているのでなく、話し手と聞き手の相互関係という〈場〉において多様に解釈されうるという経験は、パースの三項関係の記号論を連想させる。パースは周知のように、記号とその指示対象を一対のものとする従来の二項関係とは違い、この両者にそれを媒介する「解釈」という第三項を考えた。パースによると《記号、もしくはレプリゼンタメンとは、何らかの点で、あるいは何らかの能力において、誰かに対しある何ものかを表意するものをいう。それは誰かに話しかける、つまりその人の精神のなかにそれと同等の記号、または多分もっと発展した記号を生む、それが生むそのような記号のことをわたくしは最初の記号の解釈内容と呼ぶ。その記号は何ものか、その対象を表意する》。パースに依れば、《たがいに理解できる共通の意味または解釈思想──すなわち第三項の媒介──がなければコミュニケイションは成立しない》のであって、彼はこの媒介 mediation のことを「中間性」betweenness つまりわれわれの言い方では「あいだ」とも呼んでいる。


ただパースとわれわれとの大きな違いは、彼がこの第三項を第一項、第二項といわば同一平面上で考えていることである。したがって彼のいう解釈項は、《それ自体がまた新しい記号となってそれと対処をつなぐもう一つの解釈項を生み、それはまた新しい記号となって更に次の解釈項を生んで、……記号と対象と解釈項という三項関係が無限に生ずる》(有馬道子)ことになる。これに対してわれわれのいう〈あいだ〉は、語やその標準的な意味内容(ないし指示対象)とは位相の異なった次元にあって、それ自体がさらなる記号となることは絶対にない。むしろ、公共的・三人称的に固定された「位相差」(これをハイデガーにならって「存在論的差異」と呼んでもいい)を見失わないことこそ、現象学精神病理学にとってはその死命を制する要務なのである。(「〈あいだ〉と言葉」,『関係としての自己』139-140頁)


これと同趣旨(かどうか)のことが、フロイトの「タナトス・エロス二元論」に関連して書かれていた。
これらについては、いつか必ずまとめて決着をつける(つもり)。

このフロイトの「死の欲動」論の最大の問題点は、彼がわれわれのいう「生命論的差異」を考慮しなかったことにある。タナトスがそれを取り消して生誕以前の状態にまで復元しようとする個体の生命とは「死すべきもの」としてのビオス以外のなにものでもない。だから「死の欲動」は、自分自身のビオスに向けられるだけではなく、「破壊欲動」「攻撃欲動」として、他人のビオスにも向けられる。これに対して、「性の欲動」であるエロスが、それぞれ異なったビオスである「二個の胚細胞の融合」を通じて継続しようとする不死の生命とは、ビオスとなまったくその存在次元を異にするゾーエーにほかならない。それはヴァイツゼッカーが、「生それ自身は死なない」と述べた「生それ自身」の領域に属している。(「生命論的差異の重さ」,『関係としての自己』196頁)


ちなみに、パースをめぐる文章にでてきた「同一平面」すなわち水平的な関係性と、存在論的差異であれ生命論的差異であれ垂直的次元との関係性をめぐって、関連する箇所を(前後の脈絡を抜きにして)引いておく。
このあたりの議論を、たとえば坂部恵の「しるし・うつし身・ことだま」(『仮面の解釈学』)や梅原猛の『美と宗教の発見』第二部「美の問題」を参照しながら、いつか王朝和歌の美学の問題に接続させていきたいと思う。

「主体」は環境世界との──いわば「水平」の関係における──「出会いの原理」としてそのつど成立するのだが、そのような主体はその可能性の条件(つまり「主体性」)を、有機体と「生それ自身」との──いわば「垂直」の関係における──「根拠関係」のうちにもっている。生きものを生きものたらしめている「根拠それ自体」は、「対象となりえない」。ということは、それはもはやリアルな「もの」ではないということである。しかしこの根拠それ自体は(あるいはこの根拠との根拠関係は)、「一定の具体的かつ直観的な仕方で」──アクチュアリティとして──経験される。(「未来と自己」,『関係としての自己』279-280頁)