夢日記・オランダ絵画・スピノザ

昔、夢日記をつけていたことがある。
幼い頃住んでいた家や地域の風景など繰り返し同じ夢を見ることが多くて、それが本当にそうなのか、それとも何度も同じ夢を見るという想い(体感)とともに一つの夢を見終わっただけのことなのかを確かめたいと思った。
結局、確かめることはできなかったが、夢日記をつけるのは、同じ文章を書く経験でも昼間の冴えた頭(あくまで睡眠時との比較の話で、私の頭がふだん冴えているといいたいわけではない)で書くのとはまるで違う。
躰の奥底に沈殿している発生期の言葉を、それにまとわりつく具体性を帯びた観念群や微妙な体感とともにまるごとサルベージしていくこと。
それがうまくいったときの快感はくせになる。(また始めようか。「不連続な夢日記」とか。)


夢は脳が記憶を編集している時に見るものらしい。
根を詰めて文章を読み書きし、ほてった頭のままで眠ると、活字が出てくる夢を見ることがある。
先日の夜など、一篇の短編小説のあらすじを悪戦苦闘して考えていた。
退職間際の高校の漢文教師。妻には十年前に先立たれ、一人息子は幼い頃に亡くした。
貿易商をやっている恰幅と実入りのいい友人がいる。
「女友達」の有閑未亡人と画策して、男にある女性を紹介する。独身の書道塾師範。
初老の男女の合コンというわけだ。
なかなか進展しない漢文教師と書道師範。友人とその女友達の誘いを受けて、四人で鎌倉に一泊二日の旅行に出かける。
その夜、男は女にその半生を語る。女は……。

また別の日の夜中、もどかしい身体感覚とまとまらない言葉とがからまりあった奇妙な夢にうなされ、身もだえしながら目覚めた。
何かの文章を懸命に考えているのだが、「ナダ、ナダ、ナダ」と不気味な音がどこかから響いてきて、思考がまとまらないのだ。
この「ナダ、ナダ、ナダ」には出典があって、その前日に読んでいた柳田邦男さんの『言葉の力、生きる力』にヘミングウェイの短編「清潔で、とても明るいところ」からの一文が引用されていた。
「おれは気づいている、そう、すべては無[ナダ]、かつ無[ナダ]にして無[ナダ]、かつ無[ナダ]なのだと。無[ナダ]にましますわれらの無[ナダ]よ、願わくは御名の無[ナダ]ならんことを……」(“nada”はスペイン語で虚無を意味する)。
この二つの夢は実は私の中では一つにつながっているのだが、これはあまりに個人的な事柄なので省く。


     ※
ナダつながりではないが、先の土曜、JR灘駅の南方にある兵庫県立美術館『オランダ絵画の黄金時代 アムステルダム国立美術館展』を観にでかけた。
ここ数年、コンサートやスタジアムやシネマに出かけることはほとんどないけれど、(時おり招待券を入手する細いルートがあることもあって)各地の美術館にはほぼ季節ごとに出むいている。

アムステルダム国立美術館は現地で訪れたことがある。
仕事で北欧にでかけた際に立ち寄り、一日のオフを最大限活用して、風車、国立美術館ゴッホ美術館、コンセルトヘボー=コンサートホール(残念ながら出演は「王立アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団」ではなかった)と歩き回った。
スピノザの生家(ユダヤ人街)にも立ち寄りたかったが、事前の調査不足ゆえ断念。

美術館に出かけるとき、ジャケットの内ポケットにしのばせて往復の車中で読む薄い本(150頁から200頁程度の文庫本)の選択に迷い、スピノザの『エチカ』(岩波文庫の上巻)にいったんは決めたけれど、最後で別の本にとりかえた。
『オランダ絵画の黄金時代』はよかった。たった1枚だけのフェルメールや数枚のレンブラントもよかったし、肖像画や風景画もよかったけれど、とにかく静物画がよかった。
じっと見入っていると心があらぬところにいってしまいそうになる。
あまり長時間見入っていると、帰ってこれなくなる。
で、小一時間ほどでさっと一通り眺め(会期中、あと2回ほどは観ることになるだろう)、美術館の近所にあるJICAの食堂で遅い昼食をすまし、サンパルにあるMANYOで古本二冊と三宮のジュンク堂で新刊書一冊を買って、元町の大丸で一目見て気に入ったハーフコートを買って、あたたかい気持ちで帰宅した。


     ※
美術館の帰りに買った新刊書というのが、アントニオ・R・ダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ[Looking for Spinoza]』。
(ほんとうはマテ・ブランコの『無意識の思考──心的世界の基底と臨床の空間』を買うつもりだったのだが、見つからなかった。)
この本のことは『現代思想』の2月号で桜井直文さんが紹介していた(「身体がなければ精神もない」)。
詳細は忘れてしまったけれど、「結局のところ、ダマシオはスピノザを、自分とおなじような者(「原‐生物学者」!)とみなしてしまっている」とか「かれ[ダマシオ]の求めているスピノザはそこ[『感じる脳』]にはおそらくいない」といった批判がとても説得力をもっていたことを憶えている。
だから翻訳が出ても読むことはないと思っていたのに、そしていつ読むのかあてもないのに、発作的に買ってしまった。
チャーマーズの『意識する脳』やペンローズの『心の影』をはじめ、ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』ほか二冊、マラブーの『わたしたちの脳をどうするか』、ヴァレラの『身体化された心』、はては池谷裕二の『進化しすぎた脳』等々、心脳関係本が読みかけのままになっている。
いつかまとめてと思っているうちにだらだらと数年がすぎ、負債がふくれあがっている。
(こうやって思い出すたびに書いておけば、いずれ内圧が高まって決壊することだろう。)

ダマシオの本はまだ読んだことがないので、これをきっかけに『生存する脳[Descartes' Error]』と『無意識の脳自己意識の脳[The Feeling of What Happens]』に遡ってみたいと思う。
それもこの本を買った動機、というか言い訳の一つだが、ほんとうのところはスピノザ関連の本が久しぶりに読みたくなった。
数年前に田島正樹さんの『スピノザという暗号』を読んで興奮し、最近では上野修さんの『スピノザの世界』を読んで刺激を受けた。
何しろスピノザは私が哲学系に関心を寄せるきっかけになった大切な人物だから、定期的にその世界にふれておきたい。
ダマシオの本がその欲求を満たしてくれるかどうかは、読んでみなければ判らない。