『クオリア降臨』への違和感

昨日につづきダマシオ/スピノザのことか、美術館からの帰りに買った古本のことを書こうと思っていたけれど、茂木健一郎クオリア降臨』を少し読んで気になったことがあるのでそのことを書く。
私は『脳とクオリア』以来の茂木健一郎ファンだが、茂木さんの文章を読んでたくさんの刺激を受けつづける一方、哲学系、文学系に説き及んだ箇所ではいつも微妙な違和感を感じてきた。
そのあたりのことは片目で読み、細かいことは気にせず素通りし先へ進んでいっても、脳科学者兼サイエンスライターとしての茂木健一郎の文章は充分以上に面白かった。
たとえば『脳と仮想』小林秀雄漱石をはじめ文学系、芸術系、哲学系にかなりの頁を割いていたが、あの本には茂木脳科学の理論的問題意識がしっかりと装備されていたので、安心してびしびしと伝わってくる刺激を受け止めることができた。


(そこでの茂木さんの関心は、リアリティ(ありあり感)とアクチュアリティ(いきいき感)との関係、そしてヴァーチュアリティ(普遍性)とアクチュアリティ(個別性)との関係という、ベルクソンドゥルーズ流の問題の脳科学的解明ということだったと思う。
しかし読後1年以上経つので、このことは、いまいちど『脳と創造性』とともに再読し確認しておかなければならない。
私の直観が告げるところでは、それらの問題は無限と有限という意匠をまとって西欧中世哲学において神学的な思考様式のもと徹底的に考え抜かれ、もしかすると中世日本の文藝や古代インドの宗教においても別の仕方で根柢的に思考され抜いたことである。)


でも『クオリア降臨』は勝手が違う。
「脳のなかの文学」のタイトルで『文學界』に連載された16回分の文章を収めたこの本は、まぎれもない文学論の書だからだ。
まだ最初の二つ「世界を引き受けるために」「クオリアから始まる」とあとがき「クオリアが降りてきた夜に」を読んだだけで軽々な評言を繰り出すべきでないことは重々承知の上で、それでもこの本をこれから先も読み進めるかこの時点で放棄するか(たぶん、いやきっと最後まで読むだろう、なぜなら私は茂木健一郎ファンだから)見極めるためにも、山のように押し寄せてくる疑問符の内実をできるかぎりきっちりと書いておきたい。
ニーチェの名が唐突に出てくるところ(13頁)やスコラ哲学との関係でのデカルトの取り上げ方(42-43頁)など、哲学系の疑問点もあるのだが、それは措く。)


     ※
遅れてきた文学青年が、ただ「オレはこの小説が好きだ、痺れた」という体験ひとつを根拠に、あれこれ口騒がしく姦しく批評的言辞を弄する「プロ」を相手に必死に噛みついている。
その姿は初々しくかつ痛々しい。
自分のことは棚に上げて書いているのだが、いまのところこれが率直な読後(いや読中か)の感想だ。
文学青年が「人生とは…」と抽象的な悩みを悩んでいるうちは罪がない。
そんなものはガキの麻疹みたいなものだからだ。
ここで「人生」とは「精神(生活)」のことだと気づくことから真正の文学青年は生まれる。
そのきっかけとなる「切実な体験」のことを茂木さんは「クオリア」に見立てている。
切実で痛切な、筆舌に尽くしがたい、一回かぎりの、他に置き換えのきかない、固有の体験と、それに伴う感覚・情動・感情の質。
端的にいえば、特定の異性(もしくは同性)を志向するある時期における性欲のようなものだ。
あるいは、ある時期ある特定の文学作品を読むことで得られる魂が震動するような感動。


(ほんとうは「クオリア」の概念はもっと深いもののはずだ。
あるいはもっとありふれている。それは基本的に非人間的で、個体を超過している。
それはまさしく「降臨」もしくは「降誕」するものだ。
あるいは降臨するものとして、脳内に現象(降誕)するもののことだ。
茂木さんの「脳内現象」の説は、そのようなクオリアの概念と真っ向から取り組むことを通じて形成されつつある未完の理論である。
だからこそ、それは注目し瞠目して見守るべき現在進行形の思考だった。)


「精神とは…」とその実質を問い、その成り立ちと構造と稼働原理を問うなかで、精神は表現のうちにしか表現されないと感得する。
あるいは精神を生むのは精神である、要するに文学を生むのは文学であるという(無意識裡の)認識に至る。
だから文学青年は小説を書くことを夢想する。
小説を書くのではなく小説を書くことを夢想する。構想するのではなく夢想する。
己の「切実な体験」がそこにおいて十全に表現された文字列を妄想するのだ。
しかし、精神の実質を問うことはこれとは別の道にも通じている。
たとえば神学、たとえば哲学、たとえば数学、たとえば記号論、たとえば人類学、たとえば歌学、たとえば脳科学
すでにそこに実存している個別の生からではなく、その生の裂け目を通じて覗き見られるより広大で深遠なもの(あるいはより微細で軽やかなもの)の方へ、あるいは「集団(アンサンブル)」(14頁)、あるいは伝統の方へと向かい、そこではたらくロゴスやパトスを見極めつつ、個別の生を規定するからくりを身をもって生きる知性というものもある。
そこでは文学もまた、茂木さんが想定しているようなパスカル的な「文学の神」(24頁)とは異なる(多神教的)様相を帯びているかもしれない。


茂木さんは、記号論構造主義精神分析言語学による意味づけ・文脈づけの理屈にまみれた現代の文学・芸術をめぐる言説のうちには、小林秀雄の「印象批評」のうちにあった生命の躍動(エラン・ヴィタール)が忘れ去られていると書いている(43頁)。
私は読まず嫌いでよくは知らないのだが、それでも茂木さんがいう「現代の言説」の多くが乾燥してひからびたつまらないものであるだろうとは思う。
しかしそれは、小林ほどの書き手が現代には(いや、小林の時代にあっても)希有であるという事実をいうだけのことであって、問題は記号論構造主義云々の理論にあるわけではない。
記号論構造主義云々には記号論構造主義云々をもってしかアプローチできない固有の問題があり、たとえ記号論構造主義云々の理論的意匠をまとっていたとしても、小林秀雄の批評文に匹敵する力をもった批評もあるはずだ。
少なくとも「批評は、常に作品自体の持つクオリアのピュアさに負けてしまう」(32頁)などと素朴に言うことはできない。


     ※
茂木健一郎が遅れてきた文学青年だという意味は二つある。
一つは、「文学は、あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、世界の全体を引き受ける普遍学としての可能性を志向する」(18頁)といったその文学観にある。
茂木さんは、小学校五年の時に読んだという『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』をはじめ自分がこれまでに読んで感銘を受けた小説を念頭において、そういう(一回性が普遍性につながる「切実な体験」を表現した)小説を自ら書きたいと思っている。
たぶんいくばくかのフィクションに手を手を染めているに違いない(近く最初のフィクションが刊行されるらしい)。
要するに、自分が好きな(書きたい)文学はこれだといっているだけなのだ。
それが茂木流の「印象批評」だとして、そのような趣味の上になりたつ「文学論」は、茂木さんの書いたものならなんでも読んでしまう(私のような)ファン以外には通じないのではないか。
「文学にとって統計ほど遠い存在はない」とも茂木さんは書いているが、文学はそんな了見の狭い営みではないはずだ。
「個の体験の特殊性」など歯牙にもかけない文学的伝統もある。
いっそ「あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、世界の全体を引き受ける普遍学」としての脳科学をうちたてるための捨て石に文学や芸術や哲学をつかうと言い切ってほしかった。


二つ目の意味は、実は一つ目のそれと同じことなのだが、自然科学者としての茂木健一郎の文学や人文系へのコンプレックス(劣等感という意味ではない)にある。
ここで二つの文章を引く。
最初のものは、書かれていることには共感を覚える。
が、「個別を生きる切実さ」や「意識という主観的体験の個別」が「文学が従来扱ってきた領域」であるとする文学のとらえ方は狭い。
後者は、書かれていることの意味が判らない。
(これだけだと「茂木健一郎が遅れてきた文学青年だという意味」の説明にはならない。
でもこれ以上言葉を重ねると、書きたくない言葉を綴ってしまいそうなので、このあたりで止めておく。)

私は、ここで、科学的アプローチでは生の実相をとらえきれないと言いたいのではない。科学と文学が対立するものであると主張したいのでもない。科学が示すのは、宇宙の峻厳たる事実である。どんな生きものも、進化論が記述する淘汰の圧力と無縁では、存在し得ない。個別を生きる切実さが、統計的法則の冷酷と併存していることにこそ、生命の真実がある。個別の生が特定の様相を帯びることの背後にある科学的真理を了解することは、文学の扱う個別的体験の味わいを深めこそすれ、薄めはしない。科学の最良の部分は、文学の最良の部分に接近する。球体の上で離れていくと、ぐるりと回って元の場所に戻る。ちょうどそのように、最良の科学は、最良の文学に接近していく。


実際、物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に接近しようとしている。その、科学と文学の汽水域の中に、科学の未来も、そして恐らくは文学の未来もある。(18-19頁)

相対性理論量子力学、そして今、超ひも理論を経た科学にとって、この世で怖いものなどそんなにありはしない。精神分析構造主義など、コアの科学が積み上げてきた世界観の完成度に比べれば未だ発展途上である。(38頁)


     ※
文章は自律的に自らをかたちづくる。
最初は微かな違和感だったものが、書いているうちに肥大化して独り歩きしてしまう。
上に書いていることは、少しばかりオリジナルな思いを超過している。
少しばかりではないような気もする。
ほんとうにそうなのか。ほんとうに(私は)そんなことを考えたのか。
このことを確認するためにも、引き続き『クオリア降臨』を読まなければなるまいと思う。