『うつし 臨床の詩学』

季節の変わり目の浅い鬱に身心の困憊を覚えはじめ、なにか心を清らかにしてくれる文章を読みたくなり、森岡正芳の『うつし 臨床の詩学』を買ったのが先月末のこと。
体調を崩して「風邪をひきました」と医師に告げ「病名を決めるのは医者の仕事だ」と説教されたことがあるが、「季節の変わり目の浅い鬱」などと素人診断をくだすと臨床心理士精神科医に叱られるかもしれない。
でも、人は誰でも自分の心の専門家(本書にそういった趣旨のことが書いてある)なのだから、他人にとやかく言われることはない。
この本を読み終えた頃にはすっかり気持ちと身体が元気になっていたとしても(実際そうだった)、それはたまたま自然恢復と重なっただけのことかもしれない。
たとえそうだとしても、浅い鬱におそわれた時にどういうことをすればいいのか、どのような本を読めばいいかは、私にしか判らないことだ。

     ※
心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変様の推移を丹念に綴った書物。
そこに立ち上がる発生状態の主観性と自己性、そして「他者の私の生」(21頁)を「飼いならし」ながら、受動相(pathema)から行為相(poiema)へと転換していく様を「うつし」という語の多義性──写し、映し合い、移し換え、移りゆき、あるいは転移[うつし:52頁]、再現[うつし:183頁]、制作[うつし:209頁]、等々──に寄り添いつつ詩的に、繊細に、理[ことわり]と感[うご]きが同じ一つの糸で縫い込まれた断章の積み重ねを通じて記録した書物。


とりわけその叙述のスタイルが素晴らしい。
一続きの論述を微細に分節し、優れたセラピストの合いの手を思わせる印象的な節名や見出し(たとえば「話しかけるとき私はそこにいない」)を付しながら、概念(精神性)の独り歩きを慎重に退け、同時に感情(生命性)の自閉を解きほぐす。
感情を湛えた概念と概念を孕んだ感情。概念は瑞々しさを失わず、感情は十全に物語られる。
この叙述のあり様そのものが、「飼いならす」という本書のキーワードにつながっていく。
そして、本書の基調をなす「うつしの構造」(西谷啓治「空と即」から著者が切り出したもの)をかたどっている。
──人と人、人と事物、概念と感情の出会いの局面において「AがBに自らをうつすとき、それはBのうちでAとして現象するのではなく、Bの一部として現象する」(20頁,162頁)。


それと同じことは、人と本との出会いにおいても生じる。
すなわち「私がその文章を読むのではなく、その文章において私があらわれる[本のなかに私が書き込まれている]」(145頁)という主客反転の感覚。
そこにおいて私があらわれる本とは、たとえば「記憶」であろう。
玄侑宗久は「御開帳綺譚」で「我々僧侶が供養しているのは、結局のところ記憶ではないのか」(文春文庫『御開帳綺譚』50頁)と書いている。
この「供養」のことを森岡正芳は「共有体験[シェアリング]」と呼ぶ。臨床とは輪唱である。

過去の記憶を過去のものとしてふりかえるだけでは人は癒されない。それを誰かに語り、再現する。そこに十分につき添う他者との再現[うつし]の場が必要である。再現[うつし]をそれがある場において探求し、その道行きに他者が参加し共体験すること。このような再現[うつし]の力を借りることが必要である。


思い出を語るという想起のあり方は、語られながらそこで語られていることを生きているようにみえる。語っている時間と語られている思い出のなかの時間が重なり合う。一つ一つの出会いやふれ合いを再創造する。このような再創造は過去遡及的であるが同時に、今この場において未来への見通しをあたえてくれる。そのような時間のなかで、その人がどこかに追いやっていた「私」が動き出す。(183頁)

著者の紡ぐ言葉は美しい。
とりわけ感銘をうけた「対話的倍音」と「中間世界」の語が出てくる文章を抜き書きしておく。
(「対話的倍音」は「概念のポリフォニー」や「連歌的想像力」に、「中間世界」は坂部恵の「あわい betweenness-encounter」にそれぞれ重ね合わすことができる。)

私たちは理解しようとする相手の発話の一語一語の上に、自分が答えるはずの一連の言葉を積み重ねる。相手の言葉に対して、話者がさらに声を重ね合わせていく。新たなイントネーションが付け加わっていく。また相手の言葉との衝突を通じて、話者によって強調点の置き換えや省略、意味の付け加え重ねあいが生じるのである。


このような対話関係のなかで──声と声が重なり共鳴しあい、あるいは衝突するなかで──新たな意味や連想が生まれてくる可能性を「対話的倍音」(dialogical overtone)と呼ぶことができる。(略)


話者は相手の言葉を引用しつつ、そこに新しい意味を含ませながら、なおその意味がすでにもっていた意味を保持しておくということもできる。言葉はいくつもの言葉の交錯であり、その言葉のなかに対立する感情も同時に包含することができる。(119-120頁)

セラピーの場面には、多様かつ根源的なうつしの営みが含まれている。それは生命性と精神性の相克、あるいは創造的な交叉という問題に集約される。生命性のもつ直接的で一次的な持続は体験の下地を支えるものであるが、人間の精神は必ずしも生命の方向性と一致しているとはかぎらない。うっかりすると、生命性からの解離に精神が加担してしまう。また心身に負荷のかかるストレスや外傷的事象に接すると、体験の下地は荒らされてしまう。セラピーで対応が求められる状態の背景の多くにはこの問題が潜在するようだ。


その回復への手がかりは生命性の世界にもどるということ、自然のあるがままを受け入れるということなのだろうが、そう簡単なものではない。その探求にあたっては「うつし」という言葉の多義性そのままに、生活や文化の多面的な様相に入り込む必要が出てきた。人ともの、心と身体の交叉するところ、生命と精神、覚醒世界と眠りの世界の交錯するところ、生活世界と夢や空想イメージ、仮構物の交互作用の生じる場がある。さらに自己と他者が交感する接触面、そしてある出来事とそれとはまったく別の系列の出来事の交錯するところ、過去をふりかえり語るとき、今この場に似たものがふたたび現れたり、生きた体験がテクスト世界に転換[うつ]されたときに新たな意味世界へと跳び越えたりと、これら中間世界の魅力は限りないものがある。このような場に生じるうつし合いを通じて、人はそれまでとは違った意味空間に移りゆく。それは日常世界のなかに詩的瞬間を胚胎するところとなる。(215-216頁)