『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』

三日坊主という言葉がある。
何事であれ三日も続けばたいがいは全うできる。そういう意味だと理解している。
禁煙だって三日もてば立派ということ(これは違うか)。
せめて三日は連続更新しようと腹をくくってブログを立ち上げ、満願成就したので今日は一休みするかと思っていたけれど、やはり書きたい。
ブログを書くために本を買ったり、無理に読んだり、なにか感想をでっちあげるのは本末転倒。
でも、よほどのことがないかぎり毎日いくらかは活字を読み、あれこれ思いをめぐらせたり思いを見失ったりして過ごしているのだから、書き残しておくことは、けっして誇張ではなく無尽蔵にある。
黒猫さんの「ブログ中毒」警報、栗山さんの「日々更新依存症」注意報がいよいよ現実味を帯びてきた。
(それにしても、こういうことを書くのは、われながら初々しい。)

     ※
仕事帰りの行きつけの本屋で新刊本を漁っていて、講談社から出ている『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』を見つけた。
「死後42年たって新発見された幻の日記」「真の信仰を希求する魂の記録」「“隠された意味”は何か!?」。
腰巻きに綴られた大仰なコピーを見て、迂闊にもウィトゲンシュタインをダシにした安手のフィクションだと思ってしまった。
「イルゼ・ゾマヴィラ編 鬼界彰夫訳」。
この聞いたことのない編者の名や、いかにもつくりものめいた訳者の名(と、仕事疲れの頭で粗忽にも思ってしまった)を見て、ますますその確信が高まった。


ウィトゲンシュタインが登場するフィクションというと、テリー・イーグルトン『聖人と学者の国』やジョン・L・キャスティ『ケンブリッジクインテット』や山田正紀『神狩り』を思い出す。
というか、私が読んだのはこの三冊だけ。
(そういえば、デレク・ジャーマン監督の『ウィトゲンシュタイン』を観たかもしれない。でも、これはフィクションではない。)
いずれもウィトゲンシュタインのある一面だけを誇張してとりあげていたように記憶しているが、フィクションとしてはそれなりに、イーグルトンのものは変則的な思想書としてとても面白かった。
(「ある一面だけ」などと知ったようなことを書いたが、ウィトゲンシュタインの複数性に通暁しているわけではない。)


とにかく、装幀の印象もふくめて、新手のフィクションと勝手に思い込み、それでも気になって手に取ってみて、ようやく勘違いにきづいたわけだ。
鬼界彰夫といえば、あの傑作『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の著者だった!
私の部屋の蔵書数を限定した(あまりたくさんの本を収納できない)本箱に、二冊だけ常備している現代新書のうちの一冊がこの本だ(他の一冊は、入不二基義『時間は実在するか』)。
そういうわけで、ひさしぶりの速攻買い、別名衝動買いで手に入れて、家に帰ってぱらぱら頁を繰ってみると、この日記の解読を通じてウィトゲンシュタインという新たな哲学者が(鬼界さんの前に)登場したと書いてある(318頁)。
この「日記が後期ウィトゲンシュタインの宗教性という、拙著[『ウィトゲンシュタインはこう考えた』]においてすっぽり抜け落ちていた部分に関して決定的な内容を持っていることを知」(321頁)ったとも。
巻末には「隠された意味へ」と題された40頁ほどの訳者解説もついている。
気持ちが騒ぐ。(でも、いつ読む?)

     ※
付録に、以前書いた『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の書評を貼付します。

 思考は日付を持っている。少なくとも、生きることがすなわち哲学することであったウィトゲンシュタインの「哲学的生」に刻みつけられた日々の思考の記録は。(ウィトゲンシュタイン自身は、その哲学的思考の最小単位を「ベメルクンク」すなわち「考察」と呼んだ。著者は、それを「救いの言葉」という。)
 ウィトゲンシュタイン・クロニクルとも言うべき本書の魅力は、編集以前の膨大な考察が記された遺稿への「遺伝子操作」にも似た文献学的腑分けを経て再構築された「常に自己の生と救済を目指した個人的で私的な営み」の異例な苛烈さと、その果ての無名の幸福へと到る「長い思考の旅」の全貌を描ききったところにある。
《ある男が奇妙で複雑な哲学的問題について生涯考え続けたとしよう。彼の思考が生み出したものは何の役にも立たず、誰の関心も惹かなかったが、彼は哲学的思考のおかげで生きることができ、その果てに安らかに死ぬことができた。この男の生涯は幸福だったのであり、男の哲学的思考は彼にとって比類なき価値を持っていたのである。》
 著者によると、ウィトゲンシュタインが生涯考え続けた哲学的問題の一つは言語(論理)であり、いま一つは生(独我論)であった。そして、この二つのテーマの内在的な結びつきを探ることがウィトゲンシュタインの思考の究極の目的であった。(この三つの問題について著者が割りふったキーワードは、それぞれ「論理神学」と「私哲学」と「魂有る「私」」である。詳細は本書を読まれたい。)