ヒッチコック語録──『記憶と生』(第3回・補遺)

昨日書いたことの補遺。
ベルクソンが「持続の本性」をめぐって、次のように書いていた。
原稿書きに熱中して、ふと気がつくと五つ目の鐘が鳴っていた。
この状況に対して注意深い自問を加えてみると、たしかにすでに鳴った四つの鐘の音は私(ベルクソン)の意識を揺るがしたのだが、それぞれの音が私(ベルクソン)にもたらした感覚は互いに溶け合っていた、「それは、全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方によってである」。
これを読んで、いま同時並行的に読んでいる二冊の本を連想した。


その1.『神話論理Ⅰ』。
いま「序曲Ⅱ」を読んでいる。
「音楽は神話に似ている」(26頁)、音楽と絵画の違いといったことを、レヴィ=ストロースが滔々と論じている。
「全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方」云々のベルクソンの議論へと接近してくる。
このことについては、もう少し私の思考が熟成してから書く。


その2.ヒッチコックトリュフォー『定本 映画術』。
サボタージュ』という映画の中で「最高のシーン」とトリュフォーが絶賛する殺人の場面をめぐって、ヒッチコックが演出のねらいを滔々と語り、最後にこう締めくくっていた。

映画づくりというのは、まず第一にエモーションをつくりだすこと、そして第二にそのエモーションを最後まで失わずに持続するということにつきる。映画づくりのきちんとした設計ができていれば、画面の緊迫感やドラマチックな効果をだすために、かならずしも演技のうまい俳優の力にたよる必要はない。わたしが思うに、映画俳優にとって必要欠くべからざる条件は、ただもう、何もしないことだ。演技なんかしないこと、何もうまくやったりしないこと。そして、とにかく、できるだけ柔軟性のある動きができること。いつでも監督とキャメラの意のままに映画のなかに完全に入りこめるようでなければならない。俳優はキャメラにすべてをゆだねて、キャメラが最高のタッチを見いだし、最高のクライマックスをつくりだせるようにしてやらなければならない。(100頁)

この本の序「ヒッチコック式サスペンス学入門」で、トリュフォーが「サスペンスとは、ずばり、一本の映画の物語の素材をドラマチックにすること、あるいはむしろ、諸々のドラマチックなシチュエーションをできうるかぎり強烈に提示することである」と書いている。

古典的な映画文法によれば、サスペンスのシーンは一本の映画のなかでとくにきわだった瞬間、すなわちそこだけはとくに記憶に残る鮮烈なシーンを構成するものである。ところが、ヒッチコックは、彼の作品群をずっと追って見れば気づくことだが、映画に手を染めてからずっと、どんな瞬間もとくにきわだった瞬間であるような作品、彼自身の言うところによれば「ポコッと穴があいていたりしみなんかがついていない」映画をつねにつくりあげようとしてきたのである。観客の注意を絶対にそらすまいとするこの強烈な意志、ヒッチコック自身も言っているように、観客に緊張感をあたえつづけるために「エモーションを生みだし、ついでそれをずっと持続させること」を鉄則にした彼の意識と方法が、彼の作品をきわめて特異な、だれにもまねのできないユニークなものにしていることはまちがいない。(14-15頁)

これらと「全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方」云々のベルクソンの議論との関係。
このことについても、思考の熟成をまって書く。