『物質と記憶』(第12回)

物質と記憶』独り読書会。
第二章を冒頭からざっとおさらいして、訳書125頁から133頁まで、言葉の聴覚的再認のうち「自動的な感覚運動過程」をめぐる部分を少し気を入れて読んだ。
いまここでその内容を自分の言葉で再現できるほどに身を入れて熟読したわけではない。
そもそも本を読んで理解することと、それ(たとえば本に書かれている思考)を自分のものとして使いこなすこととは違う。


第一章を読んでいたときのあのフィロソフィカル・ハイはいまや微塵もなく消失して、このところなかば義務的に頁を繰っている。
気持ちは第三章の純粋記憶の議論へと向かっている。
たとえば檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』に「ベルクソンがその「生」の思考を展開していく先である「純粋記憶」の議論は、西田の「場所」の議論と重なりあう部分が大きい」(32頁)と書いてある。
これはほんとうだろうか。
あるいはドゥルーズは『ベルクソンの哲学』第三章で、存在論的無意識(潜在的で即自的な純粋な記憶内容)と心理的無意識(現実化されつつある記憶内容)を区分し、『物質と記憶』全体がこの二つの記述のあいだで動いていると書いている。
これはどういうことなのだろうか。


第二章に漂うこの退屈感は、たぶんベルクソンの議論が私の身体のうちに反復的に習慣化されていくプロセスを表現しているのだと、とりあえず考えておこう。
いわば「型」を修得するための「修業」。いわば「ベルクソン道」。
そういえば、第二章には読書をめぐる話題が何度か出てきた。
「朗読の記憶」について(93頁〜)。「読書の機構」にかんする実験について(119頁〜)。
そして今日読んだ箇所に出てきた「ある困難な運動を理解することと、それを実行できるということとは、それぞれ別な事である」(129頁)という議論も、読書に関連づけて考えることができる。
読書における知覚と記憶、身体と精神。


上に「訳書」と書いたが、かたわらに原書をおいてたえず眺めているわけではない。
一応、インターネット経由で原文を入手しているが、大学で6年「勉強」した程度の語学力で読みこめるはずもない。
また型や修業や道という語彙が唐突に出てきたのは、このところ俄然結構面白くなってきた『日本人の身体観』の影響。
そのあとがきに養老孟司はこう書いている(ちなみに、名著『身体の文学史』は本書と同時進行的にそれぞれ『新潮』と『仏教』に連載されていたらしい)。

「日本人の身体観」の次の問題は、「修業─道─型」という主題になる。「型」は身体表現の完成したものであり、身体という無意識の表現と、ことばや芸術という意識的表現が、たがいにもたれあって、文化という一つの「表現」を形成する。社会の脳化つまり都市化は、意識的表現を拡大し、無意識的・身体的表現を徹底的に縮小するようにはたらいてきた。われわれはいまや、それをどうするかという問題に直面しているらしい。どうするもこうするも、問題を意識することが、解決のはじまりであろう。