『生命記号論』再び

昨日の『生命記号論』からの引用のうち「全ては虚空に浮かぶものから始まった」はこれだけだと何が言いたいのか(後から読み返したときに)判らないと思うので補足しておく。
ホフマイヤーがここで念頭においているのは言うまでもなくビッグバンのことだが、これは現実にあった出来事であるというより(実際だれかビッグバンを見た人がいるだろうか)むしろ論理的な区別、根源的な原‐分割ともいうべき事態をさしている。
すなわち「ない」と「ある」の分裂。しかし、何もないこと、すなわち完全な虚空を考えるのは困難である。

全てのものという抽象概念の反対概念としての虚空、すなわち論理的に心の中に描く以外の形では理解できない虚空の内に宇宙の始まりを置こうとする宇宙論は、私にとっては得心の行くものではない。もしそれを真剣に受け入れてしまうと、私たちが虚空を思い浮かべる度に、毎回、真新しい宇宙を持ち出すことになりかねないからである。なぜなら、虚空は心の内にだけあるからである。この考えは実に心を落ち着かせなくする。(21頁)

この第1章「宇宙の誕生・意味の発生 「なにもない」虚空からそこに浮かぶものへ」の議論は何度読んでも(実際なんど読んだことだろうか)刺激的で、ウィルデン(よく知らない)やベイトソンラカンを引用してホフマイヤーが導きだす結論というか議論の出発点は途方もなく魅力的だ。
以下、サワリの部分を加工編集して抜き出す。


「〜ない」は境界なのだ。この境界(ベイトソンの用語で言えば差異)は精神的な働きの中にある。
その境界は「誰か」が「〜ある」を認識しないかぎり、この世には存在しない。

そして、この「誰か」が、誰もしくは何であるかを問うことが、まさに本書が投げかける問題である。誰が虚空に浮かぶものを作ることができたのか。いつそれは始まったのか。そしてそれは何をもたらしたのか。(28頁)

しかし、「〜ある」と「〜ない」、AとAでないものの分割よりもっと奥深い分割がある。
すなわち「ある」と「ない」(この「ない」は「〜ない」よりもっと「ない」こと)の分割。

ウィルデンは、私たちは心の中で考えるときでさえも、AとAでないものの境界を引くことで、現実と非現実をともに含む全世界を二つの部分に分割している。その境界を設定するという行為は、少なくともAにも非Aにも含まれない一つの系あるいは領域を定義している。/この系こそが「誰か」である。(29頁)

この「誰か」は少なくとも忘れるという能力の持ち主でなければならない。
それが(第1章に勝るとも劣らず刺激的な)第2章「失われるもの、生き残るもの 忘却の歴史と記号──忘却の弁証法」の話題である。
と、この調子で続けていると全編を祖述することになってしまう。
そうなっても構わないのだが、ここではビッグバン後七○万年の頃に始まる記号圏の物語を彩る三つの断絶をめぐる文章を引用してお茶を濁しておく。

このようにして、三つの断絶がもたらされてきた。一つは生体とDNAの間の原理的なもの、二つ目は言語に伴う自己と自己のイメージの間の実存的な断絶であるが、三番目の個人と社会との間のものは少なくともつかの間は癒されることができる。私たちはこれらの断絶のうち、最初の一つは他の全ての生物と共有している。それはDNAの形でデジタルで記号化された生体の自己記述に関するものである。この断絶が生命の出現を導き、私たちが博物学と呼ぶ自然の歴史物語を創り出した。二つ目の断絶は、私たち人間が全て共有するものであるが、他の動物や植物には見られない。それは、私たちが自己意識を持つ主体であるという事実と関係するものである。この断絶が私たちを文化史と呼ぶ文化の歴史へと導いた。


三番目の断絶は本質的に前の二つとは異なる。同時にこの二つの物語に関与しているという事実から来るものである。なぜなら、自意識を持つ主体となることで、私たちは自己本位な文化の迷宮に糸を繰りながら迷い込むこととなってしまった。そこでは肉体が残すねばねばしたカタツムリの這い跡のような痕跡はいとも容易に見失われてしまう。


第三の断絶に対する治癒も、共感に対して真摯に耳を傾けることからもたらされると期待される。ここで必要なのは、人間同士の共感だけではない。地球に存在する生物全てへの共感である。私たちの祖先は模倣文化から石器文化へと至る境界のどこかで、自分を他者の心理の論理に従わせる方法を学ぶのに成功したに違いないと、これまでに述べてきた。心理の論理という言葉を、私はできごとや話を支配する物語の論理の意味で使ってきた。だから、私たちの先祖は、他の人間が占めていると思われるのと同じ物語、心理、関係を理解する術を獲得した。(214-215頁)

この文章だけでは第二番目の断絶(「経験の持つアナログの本性と言語の持つデジタルな本性の乖離」180頁)の中身がよく判らないと思うので、もう一つだけ抜き書きしておく。

その時[ホモ=エレクトゥスの心のスクリーンに宇宙から切り離された孤独な存在としての自己の姿が浮かび上がってきた時]、世界に存在する事物を分割する線、「〜ない」の基礎となるものが効力を発揮し始めたに違いない。それは、AとAでないものを区別できる「誰か」がカテゴリーの間の線引きを行うということ、そしてその言語を操る彼らもまたその「誰か」であり、それゆえ相いれないもの、世界の外にあるものであるという事実の認識を迫ることになる。なぜなら、世界の内部にいるためには、「誰か」は「誰か」であることを止めなければならないのだから。


そしてこのことが、会話の発達をもたらす動機づけであることを、私たちに示すものだと私は信じている。(略)言語を持たない生物が自分自身の限られた環世界を頼りに生きるしかないのに対し、会話によって世界は象徴的に作り上げられた共有の居住場所となった。そして私たちの祖先が世界の神話を創るとき、彼らの周囲の世界を過度に捕まえたのである。ここに言語が立ち現れ、自走しだした。(181-182頁)

     ※
ホフマイヤーの虚空をめぐる議論を読みながら、しきりとヘーゲルを想起していた。
『大論理学』の最初に出てくる「有」は概念にまで成長するはるか以前の朧気なもので、それはあくまで「無」と背中合わせのものである。
あると思えばそこになく、ないと思えばそこにある。
アウグスティヌスが『告白』(11巻14章)に綴った時間のようなものだ。
「では時間とはいったい何でしょう。だれも私にそれをだずねないなら、私にはそれがわかっています。たずねられ説明しようと思うと、わからなくなるのです。」(山田晶訳)
それが「有論」「本質論」「概念論」とつづく艱難辛苦と波瀾万丈の長旅を経て、強い内圧と濃度をもった概念に成長する。
そしてついに種子がはじけて飛び散るように存在物を撒き散らし、『自然哲学』の圏域が産まれる。つまりビッグバン!
(『生命記号論』にヘーゲルの影を見るのはけっして根拠のないことではない。
ホフマイヤーが準拠するパースのうちにヘーゲルは濃い影を落としているからだ。)