『生命記号論』

いくら疲れるといっても『生命記号論』についてはきちんと考えをまとめておかなければいけないと思う。
たとえ考えをまとめることはできなくても、この書物から受け取ったものをなんとか自分の身から出てきた言葉で反芻しておかなければいけない。


私はこの本を黄色いマーカーをつけながら読み進めていったのだが、ふりかえって見てみるとほとんどの頁が黄色く染まっている。
それほどまでに細部の議論が魅力的だったということで、だからこれまでに何度も繙きながらそのつど過剰な刺激にたえられず、というか自分勝手な思考もしくは空想の世界に入り込んでしまってそれより先を読み続けられなかった。
今回、かなり無理をして(体力的に)最後まで一気に読み切ってみると、予想されたことではあるが、それら細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高めていく。
それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。
こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。
しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。
あるいは座右に常備し、折節随所を拾い読みしては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。
処方箋ははっきりしているのだが、そして今の私の気力と体力と脳力ではそうするしかないのだが、それでも後の日のために最低限の作業はやっておかなければならないと思う。

     ※
「全ては虚空に浮かぶものから始まった」。
著者は最終章の末尾(232-233頁)で本書全体を概観している。
「まずは、私たちが自然法則と呼ぶ習慣がそこから生じて来る」。
なぜなら、パースの形而上学の要点が示すように自然には習慣化する傾向があるからだ(54頁)。
次いで「習慣が生命の出現をもたらし、生物に固有である予測能力がこの習慣から産まれて来た」。
同時に予測間違いも生まれたが、もし間違いが多すぎなければ、生物は遺伝物質の中のメッセージの形で生き残ることができる。
「それは現在の痕跡を未来へと取り込ませることを意味する。やがて、これらの痕跡は撚り合わされ、ますます洗練の度を増していくような洞察の基盤を形作る、関係のネットワークが生じて来る」。
この記号論的なネットワークのことを著者は「記号圏」と呼ぶ(102頁)。
頭脳と感覚器官の出現とともに記号圏は膨らみ、そして「最後に、この記号圏の真ん中で、完全な自意識を持った人間が出現した」。
人間は「この世界に自意識ほど価値を持つものはない」と想像するようになったが、「こうした考えやその破壊的な副次効果は全て錯覚である」。
なぜなら「私たちが意味を発明したのではない」からだ。
「この世界は常に何かを意味しているのだ。世界がそれに気づいていないだけで」。


以上のような「要約」を読んだところで、たとえそれが著者自身によるものであったとしても、それでいったい本書の何がわかるというのか。
それだとまるで砂糖が水に溶けるの待たずに砂糖水を飲むようなものではないか(ベルクソンの引用)。
『生命記号論』を理解するためには『生命記号論』を読まなければならない。
小説を「理解」するためには小説を読まなければならないように。
もっと精確に言えば、それを生きなければならないように。
小説は読んでいる時間の中にしかない(保坂和志の引用)。
というのも、そこで言われる小説とは生命だからだ。
小説が生命をもつというのは比喩ではない。文字通り小説とは生命そのものなのだ。
なぜならそこには「記号そのものを担う物質」と「記号によって表現されるもの」と「記号の解読者=翻訳者」という「パースの一般的な記号の三項関係」(43頁)が成り立っているからだ。
このパースの記号論を踏まえた「生命記号論」は、生命現象そのものの稼働原理であると同時に、生命現象を認識し記述する方法でもある。
もっと大雑把に言ってしまえば、物質と精神、つまり物の秩序・連結と観念の秩序・連結(スピノザの引用)、あるいは行為と認識の双方に通底する存在(生成)の論理である。


記述すること、認識し理解すること、解読・翻訳し解釈すること。
存在(生成)すること、行為すること、生きて死ぬこと。
このふたつの推論過程すなわち「記号過程」が一致する。
そのような事態──「自分も描き込まれている地図を描くこと」──を著者は見すえている。
西田幾多郎は「自覚に於ける直観と反省」でアメリカの哲学者ロイスの言葉を引きつつ、「例えば英国に居て完全なる英国の地図を写すことを企図すると考えて見よ」と、「自覚」において自己を現実化させる「働き」になぞらえた。檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』92頁)
松野孝一郎氏は訳者あとがきに書いている。
「少なくともこの地球上に出現した生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記述され続けて来た対象であった。ホフマイヤーが本書で明かしたのはこの内部記述の正体である。」