『言葉の力、生きる力』と『美と宗教の発見』

昨日、柳田邦男『言葉の力、生きる力』を買った。
「ケータイ・ネット時代に突入して以来、情報は怒濤のように駆けめぐっているのに、言葉はイマジネーションの膨らみを失って、痩せ細った記号と化し、かけがえのない沈黙の間合いさえ、ミヒャエル・エンデの暗喩をかりるなら、「時間貯蓄銀行」に収奪されてしまった。」
「言葉の危機は、心の危機であり文化の危機だ。」
巻頭に掲げられたこれらの言葉が、心に突き刺さってきた。
このところちょっとした「心の危機」に襲われている。
記憶力の急激な減退と体力の減衰、微細な感情表現の阻害、ささいなきっかけでの怒りの噴出、出口を失ってとぐろをまいた言葉の内攻。
それらの徴候がじわじわと日々の時間の流れを淀ませ、感覚を鈍らせていく。
「かけがえのない沈黙の間合い」を埋めるために活字や映像や音像を求めては、ますます深みにはまっていく。
こういうことはこれまで数え切れないくらい経験してきた。
その都度あくせくしては、結局時間の経過とともに恢復することの繰り返し。
『言葉の力、生きる力』がそのきっかけになるかどうかは読んでみなければ判らないが、イマジネーションの膨らみを湛えた深くて豊饒な言葉、沈黙と測りあえるほどの言葉に飢えている。


今日、ちくま学芸文庫版の梅原猛『美と宗教の発見──創造的日本文化論』を購入。
梅原日本学の原マグマとも言うべき処女論文集。文庫カバー裏にそう書いてある。
書店で拾い読みをしていて、収録された十編のうち第二部「美の問題」の「壬生忠岑「和歌体十種」について」と「世阿弥の芸術論」をじっくり読んでみたいと思った。
巻末に収録された著作集第三巻のための「自序」にこう書いてある。

私がここに「美と宗教の発見」というものは、主として密教と『古今集』である。密教に目をつけることにより、禅と浄土を中心とした従来の日本仏教観を批判すると共に、『古今集』に目をつけることによって、万葉集中心の従来の日本文学観を批判しようとしたものである。(393頁)

「仏教渡来以前の古代神道」への造詣や、ますらおぶりの歌集からたおやめぶりを併せ持つ歌集への「万葉観」の深化という、その後の梅原日本学の展開のことは「自序」にも書かれている。
密教と和歌というと「和歌即真言」の西行を連想する。
桑子敏雄『西行の風景』がなかなか進まない。
空海(の詩論・言語論)への関心もしだいに高まっていく。
講談社学芸文庫の内藤湖南『日本文化史』上巻に空海をめぐる一章があった。
気持ちが逸るが、ここで自戒の言葉。
砂糖水が飲みたければ砂糖が水に溶けるのを待たなければならない。