書き初め──名僧とヒッチコック

正月休みがあけて、まったくストレスの無い状態で三日ほどたらたらと仕事をして、今日からまた三連休。
このブログもしばらく「溜め記事」でうめて、今日が今年の書き初め。
年末年始に読んだ本や雑誌、買った本や雑誌のこと、この間考えたこと・やったこと、念頭のあいさつ・誓い・一句、今年の「読書計画」など、いくつか話題のタネが思い浮かぶも、そういういつに変わらぬ行いが面倒くさくなって、一日ぼんやり、とりとめもなくすごした。


昨年の暮れ、梅原猛著『美と宗教の発見』にいたく感銘を受けた。
この本を手にとったきっかけは、そこに歌論・能楽論をめぐる文章が収められていたからだが、読み進めていくうち、「美」より「宗教」の方により強く惹かれるようになっていった。
具体的には、国語教育に関連して述べられた、「かつて日本人の教養の中で、大きな位置を占めていた仏教の教養はどうなったのだろうか。たとえば、雄大な思想を比類なく雄渾な文体にもった見事な空海の文章、一言一句が無常な人生の前にたつ緊張感にふるえるかのような源信の文章、あるいは、内面の深い罪のうめきを、執拗に追いかけるような親鸞の文章、そして、無類の宗教的情熱を、断定的な命題に託した日蓮の文章、それらの文章は、日本のもっともすぐれた人間が達することの出来た、もっとも深い精神の表現だ」というくだり。

石川忠司著『現代小説のレッスン』に、阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論が出てくる。
これを読んで、加藤典洋著『僕が批評家になったわけ』を想起した。
そこにこう書いてあった。
あるとき、本居宣長荻生徂徠を読んでいてとても気持がよかった。その譬えとか、物の言い方が実に過不足がないという気がしたからだ。日本のことばは明治になった後、まだ平静を取り戻していない。ということはまだ平熱を回復していない。日本のことばは完成していない、云々。

これらのことが綯い交ぜになって、今年は、歌論・連歌論・能楽論・俳諧論の類とともに、日本の仏教思想にかかわる古典を繙いてみたいという思いが高じていった。
日本語による哲学制作や思想の語り方について、なにか手がかりが得られそうな気がする。
それも歌論と並行させることで、思考や表現について深い認識に達することができるかもしれない。
でも、何を読むか。
空海でもいい。
これまでほとんど関心のなかった浄土宗に関係するものでもいいし、禅でもいい。
法然親鸞道元日蓮蓮如といったビッグネームが綺羅星のごとく明滅して、何から手をつけていけばいいのか、皆目見当がつかない。
だいいち、この気持ちがいつまで続くか知れたものではない。
などと、年末年始にかけてあれこれ逡巡していた。
今日、久しぶりに近所の図書館に出かけて、寺内大吉著『法然讃歌──生きるための念仏』(中公新書)を借り、本屋で、紀野一義著『名僧列伝(一) 明恵道元・夢想・一休・沢庵』(講談社学術文庫)を買った。
まずは入門書代わりに、名僧の生涯と思索をめぐる文章をいくつか読んで、どのあたりに自分の関心が傾くか、見定めることにしよう。


しばし『法然讃歌』と『名僧列伝』、それから読みかけの桑子敏雄著『西行の風景』を拾い読みしたあと、録画していた「NHKニューイヤー・オペラコンサート」を眺めながら午睡をとり、ヒッチコックの『汚名』と『白い恐怖』を観た。
この二つの映画に出演しているイングリッド・バーグマンの美貌に痺れた。
精神分析による殺人事件の解明をあつかった『白い恐怖』が面白かった。
犯罪場所と真犯人特定のきっかけとなる夢のシーンは、サルバドール・ダリが担当したもの。
なぜアリシア(バーグマン)はデヴリン(ケーリー・グラント)の提案を受け入れ、諜報活動に従事したか(『汚名』)。
なぜコンスタンス(バーグマン)は殺されたエドワード博士を自称する男(グレゴリー・ペック)に惹かれたのか。
あとでスラヴォイ・ジジェク監修『ヒッチコックによるラカン』の該当個所に目を通した。
ひどいものだった。というか、よく判らない。