『物質と記憶』(第20回)

今年最初の『物質と記憶』独り読書会。
先週休んだのと(あまり関係はないが)年があらたまったのとで、ウォーミングアップがてら昨年暮れに読んだ第四章冒頭を「逐行的に」読み返した。
読み込めば読み込むほど、ベルクソンの議論の面白さと周到さがじわっと浸透してくる。
今回、一つ「発見」があった。
ほんとうはもっとたくさんの「発見」があったのだが、ここでは一つだけ記録しておく。


「心身結合の問題」について、ベルクソンは書いている。
「すべての学説におけるこの問題の困難さは、私たちの悟性が一方で延長と非延長との間に、他方で質と量との間に設ける二重の対立からきている」(202頁)。
ここから「非延長+質=精神」と「延長+量=物質」の二項が帰結され、後者が前者を導出すると称する唯物論と、後者は前者の構築物であるとする観念論の対立が生じる。

これに対してベルクソンは「通俗的二元論」を極端まで(つまり「純粋知覚」=物質と「純粋記憶」=精神の二分にまで)徹底することで、非延長と延長、質と量との間に接近の道を用意する。
まず、脳(行動のための器官)を知覚から切り離し、知覚を事物そのものの中へ置きもどす「純粋知覚」の理論を通じて。
「純粋知覚の分析は、ひろがり extension という観念の中に、延長と非延長の可能な接近をほのめかしたのである」(203頁)。
ついで、記憶を物質から(したがって脳の働きから)切り離し、精神の側に置きもどす「純粋記憶」の理論を通じて。

さてもしすべての具体的知覚が、どんなに短い場合を仮定しても、すでに、相継起する無数の「純粋知覚」の記憶力による総合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、私たちの記憶作用におけるそれらの収縮に由来するものであり、客観的諸変化の相対的等質性は、それらの自然な弛緩から由来するものと考えるべきではなかろうか。そうすると量と質との隔たりは、ひろがりの考察が延長物と非延長物の距離をせばめたのと同じように、緊張の考察によってせばめられうるのではなかろうか。(204頁)

すこし端折りすぎたが、今回「発見」したのは、引用文の最後にでてくる「ひろがり extension」と「緊張 tension」の対になる語が、実を韻を踏んでいたということだ。
だからどうだと問われても困るが。
(これに「内包 intension」がどうからんでくるのか。それは今後の目の付け所の一つだろう。)


引用文に書かれている、純粋記憶の収縮と純粋知覚の弛緩とでもって現在の具体的知覚が合成されるというくだりを読んで、第三章の冒頭を「逐行的に」再読した。
ここもまた読み込めば読み込むほどに面白い。
あと数か月で読了する『物質と記憶』独り読書会のあとのことを考えて、この正月、岩波文庫の『創造的進化』と『道徳と宗教の二源泉』を「書庫」から引っ張り出してきて、『思想と動くもの』とあわせて三点を本箱に揃えている。
でも、ようやくその面白さが身に染み込みはじめた『物質と記憶』をそんなに簡単に手放していいものかどうか。
(悩むのは、とにかく最後まで読み終えてみてからにしよう。)