『美と宗教の発見』第三部

梅原猛『美と宗教の発見』第三部の第一論文「「固有神道」覚え書き」の冒頭に次の文章が出てくる。

しばしば物の真相は、一つの体系で説明されるより、そのものの真相を追究する多くの断片的に見える観察と思惟の束によって明らかになることがある。私はここで哲学者の体系の一貫性よりも、芸術家の感性の豊富さを学びたい。(309頁)

ここに書かれていることは「固有神道」一篇だけにではなく、本書に収められた十篇の論文のすべてにあてはまるだろう。
とりわけ第二部の、それもこれまでこの日記で再々(その内容にはほとんどふれずに)言及してきた「壬生忠岑「和歌体十種」について」と「世阿弥の芸術論」において。
歌論や能楽論の話に入るときりがなくなる。
ここでは第三部の話題に限定して、この平田篤胤批判の「固有神道」が「世阿弥」に、続く第二論文「浄土教的感情様式について」が「壬生忠岑」に相即していることを指摘して、今後の作業のための覚え書きとしておく。


     ※
梅原猛は、神道の価値の中心は清浄にあるという(323頁)。
たとえば林羅山神道伝授』はこう記す。
「心の清きは神のまします故也。鏡の清く明なるが如く。弥清くする故に、鏡の中の、にごりのガをのけて、カミと申也。」
この浄の価値は美的価値概念に尽きるものではなく、善・真・聖をもとり入れている。

宣長は、おぼろげにこのことを自覚していた。「都美[ツミ]」ないという清浄の境地は、同時に「つゝみなく」という意味でもあると彼は言う。つつみなく真の自分をかくさない。どんな自分のみにくいすがたでもありのままにあらわすことがつつみなくなのである。
 鏡が神の象徴として用いられたのも、このような価値論のためなのである。」(325-326頁)

浄という価値は、美的価値を中心とする価値の化合物であった。この化合物を最高価値とすることによって、日本人は一つの価値の専制からまぬがれたのである。真なら真、善なら善の価値のみが支配することは、結局、人生と世界との半端な見方である。特に善の価値を中心にし、しかも最大の善の価値を、たとえば『法華経』を崇拝するなどという、はなはだ恣意的なものに置こうとするとき、その価値論は、暴力的に集団のエゴイズムをあらゆる人におしつけようとする価値論になるであろう。われわれの民族は既に何千年の昔から、このような一元的価値論よりはるかに精妙で自由な価値論をもっていたのである。(「「固有神道」覚え書き」328頁)

このような価値論は日本人の生活そのものを貫いている。
たとえば『坊っちゃん』に人気があるのは坊っちゃんの心の清さ故であろうし、坊っちゃんにとっての理想の人は清[きよ]であった。
また漱石は『明暗』で唯一の理想的人物として清子を登場させている(333頁)。
ところが国学者たち、特に平田篤胤による純粋化(仏教の影響の排除)を経た明治以降の神道古神道=固有神道)は政治に従属するものとなった。
清浄という価値論だけでなく、生けるものとしての自然を中心にする神道存在論も政治に従属させられた。
それは人間中心の存在論と神の人間化をおし進めた「ヨーロッパ的な神道」(335頁)にすぎなかった。
以上が「「固有神道」覚え書き」のあらすじである。
ここに出てくる美と政治のかかわりは「世阿弥の芸術論」のテーマにつながる。


梅原猛は、世阿弥の芸術論のほとんどすべてが歌論に範をとったものであり、その中心をなす三体論(女体、老体、軍体)には後鳥羽院の和歌三体和論(恋旅=艶に優しく、秋冬=細くからび、春夏=太く大きに)の影響があったのではないかと考えている。

私はここで必ずしも世阿弥後鳥羽院の直接の影響があったと断定する気はない。もし私がそう断定したら、実証ということだけで芸術や芸術論が理解出来ると思っているかのような世阿弥研究家たちは、私の乱暴な結論を非難するであろう。しかし直接の影響より、もっと大切な問題がある。それは一つの文化の流れにおける精神の構造の類似性である。一つの精神の流れにおいて、深く思惟する思想家たちは、おのずと思想的情熱の内面的必然性により、先人と同じ問題を考えることにより思想の類似性を獲得するのである。世阿弥後鳥羽院と同じような分類に達したのは、彼らが同じ精神の流れにおいて、生命そのものの持つ形を熟視したからである。戦後、人は物質だけに形があり、精神には形がないと思っているが、精神は客観的なそれ自身の形と論理を持っているのである。その精神の形を見つめることから新しい精神史の試みがなされねばならぬであろう。後鳥羽三体と世阿弥三体との間には精神の形の類似性がある。しかし、類似性と同時に差異性も無視することが出来ない。後鳥羽三体が美的理念の分類を主として季節の差異によって行なったに対し、世阿弥はそれを人間の生命の様式の差異によって行なった。人間の生命の差異という客観的な差異の基準を見出したという点において、世阿弥の三体の方が論理的であろう。(「世阿弥の芸術論」255-256頁)

長々と引用した。
「精神は客観的なそれ自身の形と論理を持っている」という本書全体の通奏低音ともいうべきテーゼの前後の文脈を省略することなく抜き書きしておきたかった。
そして歌体とは感情の形(様式)であると同時に「生命そのものの持つ形」であり「精神の形と論理」であるという、このところ私が強烈に関心を寄せているテーマにかかわる重要な命題を正確に書き写しておきたかった。
さて、美と政治の問題。このことについては、「世阿弥の芸術論」末尾の一文に尽きている。

世阿弥の芸術論のことを考えるとき、私はいつも金閣寺のことを思うのである。世阿弥の保護者であった足利義満によって建てられた金閣寺は、三層の建物である。一層は王朝風の寝殿造り、二層は武士風の書院造り、三層は禅宗風の建物であると言われているが、私はこの三層の奇妙な配置の中に、義満の文化統合の原理を見るのである。つまり、基本に王朝精神をおき、その上に武士道精神と禅宗精神をおく、三重の精神構造は、義満の文化統合の原理ばかりか、政治統合の原理であったかもしれない。世阿弥の三体論は、その精神構造において、義満と同じなのである。一層に幽玄の女体を、その上に軍体と老体を置いているのである。たしかにその点で、世阿弥美学は義満美学と同じものであったろうが、世阿弥には、幸福な政治的支配者のもたない独自な美の世界があった。それは、おそらく、狂人と鬼と死霊を主人公とした闇の煩悩の荒れ狂う世界であったが、そのような衝動のはげしさが、ここでは静かな観照の精神と共存しているのだ。世阿弥においては、まだ明らかにされねばならない多くのものがある。そしてそれを明らかにするのは、同時に、日本文化そのものを明らかにすることなのである。(「世阿弥の芸術論」270-271頁)