『生命記号論』三たび

『生命記号論』をめぐって先週書き残した話題を続ける。
本書を読みながら、しきりに養老孟司『人間科学』を想起していた。
(そういえば『人間科学』を読み終えたときも『生命記号論』の場合と同じ物狂おしい気持ちになったものだった。
養老孟司とはいつか決着をつけなければ」と威勢のいい言葉で始まる書きかけのファイルが今でもパソコンのデスクトップに置いてある。)
たとえば、養老孟司は「細胞‐遺伝子」と「脳(社会)‐言葉」の二つの情報系を比較しながら、細胞と脳をひとまとめにして情報の翻訳・複製装置を含んだ「システム」と定義し、遺伝子と言葉という「情報(より正確には記号)」と対置させている。

さてこのように定義したときのシステムと、情報の違いはなにか。じつはシステムは生きて動いているが、情報は固定している。そこがいちばんはっきりした違いである。細胞は生きて動いているから、おそらく二度と同じ状態をとることはない。脳あるいは脳を含む個体も、まったく同じである。脳は二度と同じ状態をとらない。(『人間科学』37-38頁)

これとほぼ同様の議論がジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に出てくる。
ニワトリが先か、タマゴが先か。
「DNAは生体のデジタル化された自己記述である」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と見なされるべき」なのか。
現在の知識ではこの二つの可能性のいずれも排除することができない。

…私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、もしDNAがそれ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の意味も持たず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が保証されていなければ、生体のメッセージについて語るべきものは何もない。カテゴリーと感覚認識についてのこの有名なねじれ現象はカントに負う。人はこれをカント哲学の問題と見るかもしれないが、私はそうではない。同じ問題が生き物一般の内にも認められる。


生命はこのデジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの間の記号論的相互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものである。生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」である。人間における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNAの両方から成る。(『生命記号論』78-79頁)

このほかにも「科学は何であれ、多かれ少なかれ、その科学に固有な現実を持つ」(14頁)という指摘や第6章「自己の定義」での免疫系をめぐる議論など、養老人間科学との接点はいたるところに見つけることができる。
そもそも本書を購入したきっかけは、有限会社養老研究所主催の第1回養老孟司シンポジウムの記録を収めた『脳と生命と心』に四冊の必読本の一つとして掲げられていたのを見たからだった(たぶん)。
だから養老孟司と『生命記号論』はもともと縁が深い。
(他の必読本は茂木健一郎『脳とクオリア』と計見一雄『脳と人間』とラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』。
これでようやく三冊目を読了したわけだ。ちなみに第2回養老孟司シンポジウムでの講演をまとめたのが野矢茂樹『同一性・変化・時間』)。