『生命記号論』四たび

くどいが『生命記号論』の話題。
この本の抜き書きをやり始めたら止まらなくなりそうなので、一つに限定しておく。
第9章「意識の統一 意識 脳の中の肉体の統治者」で神経生物学者ガザニガが引用されている。
「私たちの脳は、多くの知的システムが連邦と考えてよいようなものの中で共存する組織である。」(189頁)
「人間の心は心理学的性質よりも社会学的性質を強く持っている。」(192頁)
ホフマイヤーは、「もし私たちがガザニガを信じようとすれば、私たちの内部には場合によっては何千もの独立した脳のモジュール(考えるものの集団でもよいが)が働いていることになるが、それではどうして私たちは自分の意識を統一された一つの総体として感じることができるのであろうか」と疑問を提出し、自ら回答している。

これへの明白な解答は、こうした脳のモジュールもしくは考える集団の成員全てが共同して働いており、一つの同じ身体と相互作用しているためである、とするものだ。肉体はいつでも一つの現実の命、一つの真実の物語に包まれている。私が言わんとしているのは、意識が神経学的現象だとしても、その単一性は肉体の持つ歴史的な一体性から生じているということである。意識とは脳内に座す肉体の統治者である。


何が起きているかというと、人間の生活のそれぞれの瞬間において、身体は、それまでの人生に根ざした物語、更にはその瞬間にも当の個人を含む物語に即して、周囲の状況の解釈に影響を与える。この解釈のことを、私たちは意識と感じているのである。(193頁)

ここに「記号を表すもの=環世界」「その対象=意識」「記号の解読者=身体」という三項関係が成り立っている。
すなわち「意識とは肉体によるその環世界の解釈である」(195頁)。


このことに関連して(いるのかどうかよく判らないが)、大澤真幸の『思想のケミストリー』に収められた「巫女の視点に立つこと」を想起した。
馬頭観音像で遊ぶ子供を咎め別当が病んだ。
巫女に聞いたところ、観音様が子供らと楽しく遊んでいたのをお節介したのが気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。
この『遠野物語』に採録された説話を素材として、大澤真幸は、社会学をすることは共同体の中にあって巫女の視点に立つことであると言う。
別当の病は、身体・行為の水準(観音様も楽しく遊びたいはずだ)と言語・意識の水準(観音像=超越性を粗末にしてはならない)の不一致を示す現象である。

社会学する〉ということは、つまり社会的な秩序を結節する経験の構成を認識するということは、まさにこの[マルクスの]「人々はこれを意識しないが、しかし、これを行う」と言われるときのその行っていることを見ることにほかならない。(246頁)

大澤真幸の議論はまだつづくがこのあたりで止める。
『生命記号論』とどう関連している(と私は思った)のかよく判らなくなった。
松野孝一郎の訳者あとがき「記述の限界とそれへの開き直り」に出てくる「内部記述」に結びつけて何か考えたかったのだろうと思うが、これはまた別の機会に。