『東京タワー』と『杯』

リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社)


《人の一生のうちでただ一度だけ起こること》
 だれでも一生に一冊、小説が書けるという。笑いや涙、感動や共感を誘う小説。誘わなくとも、読者の心の奥深いところ、情動にはたらきかける小説。ありのままの事実をただ書き連ねるだけでは、そのような小説は書けない。人生は小説ではない。ありのままの事実をありのままに書くことなど、並の力量ではできない。そもそも、ありのままの事実などどこにもない。ありふれた出来事などどこにもないように。ありのままの事実であれ、ありきたりの出来事であれ、それはそのような事実や出来事を生きる人の、当の事実や出来事に対する態度のうちにしかない。
 小説を書くということは、小説を書くという強い意識を伴う行為である。知らぬ間に小説を書いていた、などということはない。知らぬ間に書いた文章が、それを読む人の心の奥深いところ、情動に知らぬ間にはたらきかける、などということはもっとない。しかしそのあり得ないことが、人生に一度だけ起こる。それが書物として世に現れることは、もっともっと稀有なことだ。リリー・フランキーの『東京タワー』を読むということは、そのようなあり得ない稀有な出来事に遭遇することである。
 この人の文章はひどい。とても読めたものではない。しかし、そのような文章でしか表現できない実質がある。というより、ある実質がそのような文体を強いている。この作品を、たとえば堀江敏幸の文体で読むと、読者はより深い文学的感銘を受けるかもしれないが、それはもう『東京タワー』ではない。当たり前の話だが。リリー・フランキーは、堀江敏幸とは異なる次元で、小説には「いま」しかないということを作品を通じて表現している。この作品には、ほんとうは相互に無関係の異なる複数の「いま」が、それぞれの「いま」に固有の感情と体感にくるまれて息づいている。だから、この作品はけっして回顧譚ではない。読者はほんとうはそのことに気づいている。だから、リリー・フランキーにとってのかけがえのない「いま」が、だれにとってもかけがえのない「いま」としての輝きをもって表現されていることに愛惜の涙を誘われるのである。人の一生のうちでただ一度だけ起こる表現の奇跡に立ちあえたことに、深い感銘を覚えるのである。


沢木耕太郎『杯〔カップ〕──緑の海へ』(新潮文庫


疲労の名前》
 日本と韓国をくりかえし移動しながら、日韓ワールドカップの主要なゲームを観戦する。なんと贅沢な「仕事」だったことだろう。羨ましさと妬ましさが入り交じった冷ややかな視線をもって読み始めた。
 沢木耕太郎の文章は「疲労」の影を深く濃くたたえていた。そこに混じっている感情の質も量も私のそれとは比較にもならないだろうが、この疲労感は私自身もたしかに経験したものだ。この一点を確認できたことで、このドキュメンタリーは、ある精神のかたちをめぐる優れた考察の書として、忘れがたいものとなった。
 リアルタイムでTVで見、ビデオで何度も確認しては、鈴木の初ゴール、稲本の勝ち越しゴール、中田のだめ押しゴールの感動をすりきれるくらいに反芻した。しかし、それらはすべて対トルコ戦の終了とともに凍りついたままだ。あの時の熱狂の疲労が、いまでも休火山の地底奥深くでとぐろをまいている。
《決勝トーナメントの初戦で敗れたことは間違いなく残念なこと、悔しいことだった。もしかしたら、私たちが、日本代表とともに、このワールドカップで手に入れることのできた最大のものは、敗北を受け入れるのではなく、敗北を無念なことと受け止める、この思いなのかもしれない。》(403頁)
 愛国心ナショナリズムといった言葉でくくってしまっては、その実質はとらえることができない。あの体験を名ざす言葉を、すくなくとも私はまだ手に入れていない。あれから4年経った。「臥薪嘗胆」にかわる新しい語彙を見つけることができるだろうか。