『物質と記憶』(第5回)

日曜の午前が待ち遠しくなってきた。
先週『物質と記憶』を読み始めて最初の陶酔(フィロソフィカル・ハイ)を経験して以来、続きを読むのが待ち遠しい。
第一章五節「表象と行動の関係」を熟読して、続く二節分を通読。
四節「イマージュの選択」も少し読み返した。ハイの余韻が続く。
百円ショップで専用の手帳とボールペンを買ってノートをつけることにした。今その手帳を眺めながら、そこにメモを書きつけた時に脳髄に浮かんでいたことをウロ覚えで書いておく。


ベルクソンは書いている。児童の知覚は非人称である。
児童の表象は非人格的である、だったかもしれない。
これは「私」というアナログがつくられる前の知覚の実質をさしている。
児童のまだ朧気な意識のうちに、無人称の「脳」のはたらきによって縮減されたイマージュが浮かび上がっているということだ。
知覚するのは「私」ではない。行動するのは「私」ではない。思考するのは「私」ではない。
一人称の「私」を無人称の「脳」に置き換えても同断だ。
「私」が「脳」のはたらきによって産出されたアナログであるとすれば、部分が全体を統治できないように「私」が「脳」を使って知覚し行動し思考することはできない。
だからといって「脳」が知覚し行動し思考するわけではない。
「脳」は伝導体である。神経系は伝導体である。
(アナログの私とは『神々の沈黙』に出てくる言葉。これを読んでウィトゲンシュタインが「写像」の重要性に気づくきっかけになったある裁判の事例を想起した。)


ここでベルクソンが論じているのは「純粋知覚」なのである。
それは権利上の存在であって、事実上の存在ではない。
権利上の存在ということであれば、「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される可能性」だって議論することができる。
全宇宙を隈なく映しだす透明な写真。
児童の非人称の知覚はこうした無意識の知覚に限りなく近い。
三歳までのまだ言葉を使いこなせない(言語のはたらきを通じてつくられるアナログの私=三つ子の魂の輪郭がまだ朧気でしかない)児童。
七歳までは神の内と言われる父母未生以前の世界に(まだ言語によって切断されきっていない臍の緒で)つながった児童。
児童とは一個の身体である。児童は物質である。


物質は屈折率をもっている。
ベルクソンは、光が異なる媒質間の界面で屈折せず全反射する現象を知覚になぞらえている。
この界面(身体の表面)は「自由」の名で呼ばれる。
反射した光は虚の光源をさししめす。これが「表象されたイマージュ」である。
実の光源すなわち「現存するイマージュ)から虚の光源を浮き出させるのが意識的知覚のはたらきである。
この分離作用、弁別するはたらきは精神を告知する。ベルクソンはそう書いていた。
(ずっと前から「スピノザの屈折率」というアイデアを温めてきた。
スピノザが磨いたレンズを身体になぞらえ、あるいはモナドと見比べながら、身体と精神という二つの媒質の界面で生起することをみさだめたいと考えてきた。
言葉にすると訳が分からないが、ベルクソンを読むことでその実相が少しずつあきらかになっていきそうな予感がする。)