『「脳」整理法』

茂木健一郎『「脳」整理法』読了。
読み進めながら、本書の姉妹篇ともいえる『脳と創造性』に覚えたかすかな異和感がしだいに増殖していくのを感じた。
茂木さんがこの本を書いた動機は分かるような気がする。
そのことはタイトルに表現されている。
脳を使った情報整理法でも、脳力アップの教則本でもない。整理するのは「脳」なのである。
デジタル情報の洪水の中で私たちの脳は悲鳴をあげている。現代人は自分の脳の働かせ方がわからなくなっている。
しかし「脳」は元来、偶有性に満ちた世界との交渉の中で得たさまざま体験を整理・消化する臓器なのだ。
「私たちの脳」でも「自分の脳」でもない、一人称でも三人称でもない「無人称」とでもいうべき「脳」のはたらき。
だから「脳」整理法なのである。
脳科学ブームにのった凡百の(あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書とは出来が違う。
だからそこに異和感を覚えたわけではない。
でもやはり、「行動」「気づき」「受容」が「偶然を必然にする」セレンディピティを高めるために必要なのです、といったマニュアル風の物言いを茂木さんの本で読むことにはかすかな異和感がつきまとう。
それは『マインズ・アイ』(くどいが『小説の自由』にもこの本の話題が出てくる)の監訳者まえがきを読んだ時以来くすぶっている。
もちろんそこに書かれていたことは凡百の(あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書風の物言いではなかった。
「庭師は、自然の営みを支配するのではなく、むしろ自然の営みに任せるところは任せるということを知っている。マインズ・アイによる心の手入れと、無意識の営みの関係にも、似たようなところがある」。
それは分かっているのだが、本書が凡百の脳科学本として読まれてしまうかもしれないことに異和感というより懸念を覚えるのだ。
(凡百、凡百と騒いでいるが、百冊の啓蒙書を読んで言っているわけではない。
「あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の」啓蒙書を具体的に読んだわけでもない。
『海馬』にしろ『1日5分で英語脳をつくる音読ドリル』にせよ、決して凡百の類とは思わないし、それなりにけっこう日々の生業に役立っている。)


それなら何に異和感を覚えたのか。
実は書いているうちにすでに異和感は解消してしまったのだが、あえて書く。
茂木さんの科学観(「神の視点」という仮想的存在によって構築されるクールな「世界知」)がゆらいでいるように思うのだ。
もちろんゆらいでいるのは読者の側の事情だ。
『脳と創造性』にこう書いてあった。
「偶有性が、形而上学と現実世界の境界に生まれるとすれば、そこにおける秩序化を担うのが科学である」(220頁)。
ここでいわれる「科学」とは、たとえばガルヴァニの「動物電気」の発見が、スープをつくるため台所においてあったカエルの足にたまたま金属が触れて足の筋肉が収縮するのを観察したことによる、といったエピソードに示されている人間の営みのことである。
でもそれは「科学離れ」といわれる時の「科学」とは違う。
また本書に「人類の歴史を観ると、世界を自分の立場を離れてクールに見る「世界知」を忘れ、個人の体験に根ざした「生活知」に没入することは、きわめて危険なことだということを示す悲劇に事欠きません」(215頁)とある。
ここでいわれる世界知(科学)も、それはどの世界知(科学)のことだかよく分からなくなる。
要するに、「世界知=ディタッチメント=科学の知」と「生活知=パフォーマティブアフォーダンス」、「神の視点」と「偶有性」といった図式が分かりやすすぎるのだ。
分かりやい図式にのっとってすらすら読めるから何か分かったつもりになるけれども、結局何も分かっちゃいない。
たとえば「神の視点」という分かりやすい比喩。
保坂和志は『小説の自由』で「私がアウグスティヌストマス・アクィナスカール・バルトを拾い読みしたかぎり、彼らは一度も「神を見た」とは言っていない」(272頁)と書いている(パスカルだってそうだ)。
永井均は『私・今・そして神』で神の三つの位階──土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神、世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神、世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、すなわち開闢の神──を区分している。
「神」と一言で片づけられないのだ。
「世界知」と「生活知」は最初から入れ子になっているのだ。
そういった複雑さに耐えなければ何もわからない。(「脳」という言葉だって「神」と同断だ。)
クオリアの謎を解くためには、そも「解く」とは何かを反省しなければなるまい。
「分かる」(A HA!)とは何かが分からなければなるまい。
茂木さん自身の科学観(世間知と世界知の統合のかたち)を明快に論じた書物を読みたい。