具体と抽象──『クオリア降臨』から

茂木健一郎クオリア降臨』を半分ほど読んだ。
文学論としてはやっぱり疑問符だらけだが、とにかくこの人は文章が上手いのでそのあたりのことはあまり気にせず読める(読み流せる)し、細部の議論はいつもながらに面白い。


「可能性としての無限」の章に「古代ギリシャでは、具体と抽象の意味するところが、今日のそれと逆転していたと聞く」(55頁)と書いてある。
「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界こそが具体であったのかもしれない。文学が、有限の文字列で限りなき仮想の世界を構築する営みであるとすれば、おそらくはその世界こそが、人間の精神にとっての本来の具体なのかもしれない」と続く。
ここを読んで、同時並行的に読み進めている川崎謙『神と自然の科学史』の議論を想起した。
「異文化」としての西欧自然科学の特徴は、ガリレオ以来の「認識の技術化」にあると著者は書いている。
認識とは本来原因を問うものであった。原因が特定できてこそはじめて「分かった」と言えるはずだ。
「しかし、技術化が完了した西欧自然科学での「分かった」は、「その原因が何であれ」数学的記述の完成と等価である、とされた」(34頁)。
数学的表現ができることは「やった、できたぞ」という技術習得の過程で得られる状態と等価ではあっても、何かを認識する過程での「そうか、分かったぞ」とは違う。
この議論が「古代ギリシャでは、具体と抽象の意味するところが、今日のそれと逆転していた」こととどうつながるのか。
そこに、瀬名秀明との共著『心と脳の正体に迫る──成長・進化する意識、遍在する知性』での天外伺朗の発言が介在している。
天外伺朗はそこで、人間とコンピュータとの違いに「瞬時に何かが出てくる体験」があり、その一つに「Aha!体験」があると述べた後で次のように語っている。

「Aha!体験」っていうのは、言い換えれば抽象化の最たるもの。抽象化の中でもオン・オフ、イエス・ノーの一番根幹のところが先に出てきちゃう。そのあとで、それを紐解くわけだから、コンピュータじゃ絶対にできないね。特に、逐次的に処理するより仕方のない、現在普及しているフォン・ノイマン型コンピュータじゃできないだろうね。(略)「Aha!体験」は一種の統合で、単なる統合より抽象度が高いから、なかなかニューロンの発火だけ調べていても解明は困難だろうね。(253-254頁)


この「Aha!体験」は、どこかで美的体験に通じている。
茂木さんは「豊饒の海を夢見て」の章で、生死が交錯する場所における(三島由紀夫的な)美とクオリアを重ね合わせて論じている。

飯沼勲[『奔馬』]が末期の眼で見た赫奕たる日輪と、国家のことや自分の使命のことなど考えもしなかったであろう幼少期に見た夕陽は、同じ「赤」という認知的安定性によって結びつけられている。そこに、意識というものの単なる生命原理を超えた凄まじさがある。意識は、生の営みとは関係のない結晶世界にその起源を持つのである。
 クオリアは、柔らかにダイナミックに変化する脳の生命作用を支える、結晶化作用である。全ての「美しさ」の体験の背後に、その体験を構成するクオリアという基盤がある以上、美しさは、生命の作用に起源を持ちながら、どこか生命と遠い鉱物標本の輝きと同じような表情を見せるのは当然のことである。
 だからこそ、剥き出しの生など美しくも何ともないのだろう。生の真昼の絶頂の中、意識の流れの中にあらわれる様々なクオリアプラトン的輝きの中に、私たちはすでに死の国の気配を感じ取っている。美とは、おそらくは生きていながら垣間見る死の世界のことなのである。(88-89頁)

また「生きた時間はどこに行くのか」の章では、クオリア(私たちの意識的体験を織りなすマテリアル:108頁)とは一種の「縮小写像」(105頁)であり、「結晶的表象」(106頁)だと書いてある。
これらのことを総合すれば、クオリア古代ギリシャ人が「テオス=神」と読んだもの:ロレンス『黙示録論』)は「抽象」であると結論づけることができそうだ。
そうすると「具体」とは、つまり古代ギリシャ人にとっての「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界」とは、マテリアル(物質)ならぬヒュレー(質料)あるいはコーラのことなのだろうか。



「Aha!体験」もしくは「ユーレイカ(われ発見せり)体験」は、茂木さんがしきりに使う「エラン・ヴィタール」(生命の躍動)の概念と密接不可分なものだと思う。
ベルクソンドゥルーズ木村敏流に言えば、ヴァーチュアリティからアクチュアリティへ、普遍的生命(ビオス=死)から個別的生命(ゾーエー=生)への流れが物質的世界(リアルなもの)と出会う界面において立ち上がるもの、それが「クオリア」であり「Aha!体験」であり、それらは「抽象」である。
ただし、この言い方では、茂木さんの「クオリア」の概念が孕んでいる反生命的な、精確には反「個別的生命」的な質がうまく表現できない。
もっともっと吟味する必要がある。
また、古代ギリシャでは(今日のそれと逆転して)イデア的なものが具体であったというときの「具体」は、限りなく「実在感」に近いと思うが、実在(現実に存在すること)と実在感とは違う。
一般に使われる「実在感」は、物質的なものにかかわるリアリティ(ありあり感)と生命的=主体的なもの(エラン・ヴィタール)にかかわるアクチュアリティ(いきいき感)のいずれか一方、もしくはその両者が綯い交ぜになっている。
たとえば、茂木さんが「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界」というときの「仮想」、すなわちイマジナリーなもの(『脳と仮想』のタイトルの英訳がそうなっていた)に伴う実在感はアクチュアリティであってリアリティのことではない。
イマジナリーなもの(想像物)はリアルなもの(現実存在)の反対語だからだ。
これに対して、一般に「仮想現実」という時の「仮想」はヴァーチュアルである。
たとえばキリスト教の「神の国」はヴァーチャルなものであってイマジナリーなものではない。
いずれにせよ、具体・抽象と個別・普遍、そしてそれらと実在(感)の関係は込み入っている。
クオリア」や「Aha!体験」を「単なる統合より抽象度が高い」統合という意味で「抽象」というとき、そこにありありとした、もしくはいきいきとした「実在感」が随伴しているかぎり、それらは「具体」である。


ところで養老孟司は『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)に収められた「仏教における身体思想」で、「現在の日本の自然科学者が言う実証性とは、西洋から輸入された科学と、われわれの文化が本来持っていた実証性との、不思議な融合らしい」(227頁)と書いている。
「西欧におけるキリスト教の教義が、それに対する「解毒剤として」、結局は自然科学思考を産み出したように、仏教もまた、わが国固有の「実証思考」を産み出しても不思議はない。」(229頁)

要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。(231頁)

養老孟司がいう「日本の実証思考」を知るためには、歌論、連歌論、芸能論の類を読むにかぎる。
私はそう思って、最近にわか勉強に励んでいるのだが、それはともかく、ここでいわれる「抽象思考」と「実証思考」は、古代ギリシャにおける抽象・具体とどう関連づけられるのだろうか。
また、カントの時代では、主観と客観の意味するところが、今日のそれと逆転していたと聞くが(ハイデガー木田元)、それとの関係はどう考えたらいいのだろうか。
これらのことは、今後の宿題。