『物質と記憶』(第15回)

物質と記憶』。第三章の三節「無意識について」を読む。
「私たちは問題の核心にはまだ立ち入らないで注意だけしておきたい」(159頁)とベルクソンは冒頭に書いている。
ここでベルクソンが注意を促しているのは、意識とは存在の同義語ではなく、現実的行動や直接的有効性の同義語にすぎぬということだ。
意識が存在の同義語でないというのは、ひらたくいえば意識がなくても人(行動するもの)は生きている(行動している)ということである。
意識は思弁や純粋認識に向かうものではないという、第一章の議論がここでもむしかえされている。
それでは「問題の核心」とは何か。以下、本節の要点のみ(誤読をおそれず)列記する。


無意識には空間に由来するもの(物質宇宙のまだ知覚されていない部分=物自体)と時間に由来するもの(過去の生活の現に認められていない諸時期=過去自体)の二種類がある。
それらは、前者(空間の中で同時的に段階づけられる諸対象の系列)の表象の秩序が必然的、後者(時間の中で継起的に展開される諸状態)のそれが偶然的という相違はあるものの、基本的には実益や生活の物質的要求にかかわる区別にすぎない。
程度の違いはあれ、いずれも意識的把握(意識への現前性)と規則的連関(論理的あるいは因果的関連性)という経験の二つの条件を満たしている。

しかし、それが人の精神の中で形而上学的区別の形をとる。
つまり、前者は外的対象へ、後者は内的状態へと分解される。いわゆる心脳問題の発生。
「存在するけれども知覚されない物質的対象物質的対象に、少しでも意識にあずかる余地を残すことや、意識的でない内的状態に、いささかでも存在にあずかる余地を残すことは、そのために不可能になってしまう。」(167頁)
その結果、空間からとられた比喩(容れものと中味の関係:168頁)にとらわれ、記憶がどこに保存されるのかということを問題にせずにはいられなくなる。
過去の記憶が身体(脳髄)に貯蔵されるという幻想をいだいてしまう。
事の実相はそうではなくて、いったん完了した過去(蓄積されたイマージュ)はそれ自体で残存するのである。

過去がそれ自体で残存するというこのことは、したがって、どんな経ちにせよ、免れるわけにはいかないのであり、それを考えるのに困難を感ずるのは、私たちが時間における記憶の系列に、空間中で瞬間的に認められる諸物体の総体についてしか真でないいれることとはいることとのあの必然性[容れものと中味の関係は、私たちがいつも眼前に空間をひらき、背後に持続を遮断せねばならぬという必然性から、その明らかさと見かけの普遍性を借りている:168頁]を帰するところからくるのだ。根本的な幻想は、流れつつある持続そのものに、私たちの切断による瞬間的断面の形式[私たちの脳=身体は、物質的宇宙のすべての他の部分とともに、宇宙の生成の絶えず新しくなる切断面を構成している:168頁]を移し及ぼすということにある。(169頁)


     ※
星野之宣自選短編集『MIDWAY 宇宙編』冒頭の「残像」(1980年)という作品に、感光性ガラスに焼きつけられた2億年前の地球の写真のアイデアが出てくる。
二酸化ケイ素や酸化カリウム等を含む特殊な隕石が月を直撃する。
「散乱した熱い破片が急速に冷却され…… 球状のガラス物質に固まるその一瞬──その一瞬だけ 無数に散りばめられたそれらは感光性ガラスとして 一種のフィルムと化す! そしてしっかりと焼きつけるのだ 満点の星座を圧して煌々と輝く地球光を──数十億年にわたってそれは ひそかにくり返されてきた 天然の写真メカニズムだったに 違いない」。
無意識の知覚。