最近買った本・読んだ本

【最近買った本】

その1。ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳)。
仕事帰りにほぼ毎日立ち寄る行きつけの古書店でみつけた掘り出し物。
定価2千円が新品同様で3百円。たぶん一度は書店に並び返品されたもの。
あなたの好きな作家は誰ですか。そう聞かれたら(めったに聞かれることはないが)、たぶん今なら保坂和志村上春樹とオースターと答える。
エッセイであれ何であれ新刊が出れば必ず買うのは保坂和志(と茂木健一郎)で、小説だけなら村上春樹
オースターは、NY三部作と『孤独の発明』と『ムーンパレス』と『偶然の音楽』(と『ルル・オン・ザ・ブリッジ』と『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』)以外のフィクション系は未読。
まだ摘み読みしかしたことのない『空腹の技法』とあわせてこの「自伝的エッセイ」を(いつか)読み、未読の小説『最後の物たちの国で』『リヴァイアサン』『ミスター・ヴァーティゴ』に(そのうち)進むことにするか。


その2。山口瞳開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)。
昨日、サントリー山崎蒸留所・ウィスキー館のファクトリーショップで、樽用オーク材で作ったシャープペンと一緒に買った。
20代から30代にかけての愛読書が開高健だった。
『輝ける闇』『夏の闇』『花終る闇』の闇三部作は何度読んだことか(『花終る闇』は読んでいなかったかもしれない)。
『夏の闇』は英訳まで読んだ。
川端康成賞受賞作「玉、砕ける」を収めた『ロマネ・コンティ・1935年』(文春文庫)は、いまだにこれを超える短編集をしらない(『神の子どもたちはみな踊る』くらいか)。
エッセイ集『白いページ』は一種のバイブルで、釣りなどまったくしないのに『オーパ!』や『オーパオーパ!!』、『もっと遠く!』や『もっと広く!』まで愛読した。
その開高健が「やってみなはれ──サントリーの七十年・戦後篇」を書いている。
昭和44年「小説新潮」掲載のものだから、開高健四十歳前の文章。


その3。星野之宣自選短編集『MIDWAY』の歴史編と宇宙編の二冊。
同じ集英社文庫から出た諸星大二郎自選短編集がとても心に残ったので、二匹目のドジョウを期待した。
『宗像教授伝奇考』第一巻(潮漫画文庫)がまだ終わっていない。
ついでに(星野之宣とは関係ないが)ヒッチコックバルカン超特急』も買った。
これでヒッチコックの廉価版DVDは3枚目。つづけて買ってつづけて見るつもり。


【最近読んだ本】

その1。マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』。
惜しみながら読み継いでいった。
途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなったが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことはこの書物を味わう上ではまったく関係がない。
実に心地よい読中感は最後まで失われることはなかった。
それにしても美しい書物だ。
ピタゴラスによる「天空の音楽」(数学と音楽の基本的な関係)の発見。
基音とすべての倍音を加えた「調和級数」(ゼータ関数にx=1を入れたときの値:121頁)に発するオイラーゼータ関数研究。
そして、著者によって「数学界におけるワーグナー」(21頁)と形容されるリーマンの登場。
第四章のエピグラフがすべてを語っている。

素数は音楽に分解できる、ということを数学的に表現するとリーマン予想になる。この数学の定理を詩的に述べると、素数はそのなかに音楽を持っている、ということになる。ただしその音楽は、近代概念では捉えきれないきわめてポストモダンなものである。(マイケル・ペリー)

このあたりまでは、これまでから何度も数学啓蒙書でたどったことがある。
本書はそこから先が素晴らしい。
謎の人ラマヌジャンを経て、コンピュータ・エイジにおける素数と暗号、そして「世界の両端の洞窟でまったく同じ旧石器時代の絵を発見した考古学者の驚きにも通じる」(406頁)量子物理学とリーマン予想の驚きの出会い。
さらにはグロタンディークの狂気へと、非人間的な美しさを湛えた素数の物語は進んでいく。
失われたリーマンの「黒いノート」(230頁)は、たぶん人間の言葉では書かれていない。
引き続き、カール・サバー『リーマン博士の大予想──数学の未解決最難問に挑む』を読んでいる。
『なっとくするフェルマーオイラー』(小林昭七)も常備している。
今日届いた海鳴社の葉書に、オイラーの『無限解析序説』がついに完訳された(訳者:高瀬正仁)と書いてあった。
生まれ変わったら数学者になりたい。


その2。玄有宗久『御開帳綺譚』(文春文庫)。
この人の作品を読むのは初めて。
標題作では、無状と夕子の交合の情景描写がいい。

それはもう、夕子ではなかった。無状もなぜか自分でないような気分で女を布団に押し倒し、光を背後から受けながら、その光の届かない部分に誰か解らない男を挿入した。瑠璃色に染まってきた部屋が一瞬闇に戻り、そしてまた瑠璃色をとりもどした。なんの記憶も甦らず、ただ自分という輪郭も決壊してしまったような気分のなかで、男は女の今を味わい、女も男を全面的に受け容れていた。女は混沌を求める男の動きに応じ、男の願いを感じとりながら慈悲深く包みこみ、そして自らの内なる混沌を増幅してゆく。願いなど、無くなってしまった時だろうか、女が聞いたことのない声をあげて閉じながら開ききり、男は止まりつつもその中へ皆ながら入ってしまった。収縮する瑠璃色の混沌に包まれながら男は、女も自分のなかへ入ってきたのだと、初めて思った。(「御開帳綺譚」,102-103頁)

併録の「ピュア・スキャット」では、週に三日透析を受けている「あたし」の宇宙的な生命感覚の叙述がいい。

そしてあたしは拡がりながら、あたし自身の濃度を取り戻すんだ。
 カリウムもナトリウムもマグネシウムもカルシウムも、もちろんアルミだってリンだってそうだけど、この地球という星の圧力や温度で生成されることはありえない。全部太陽の三倍から八倍もあるような巨大な星の中心部で作られ、その星の死とともに宇宙に飛び散ったものだ。その星屑から、地球もあたしもできてるんだ。血の中の鉄分なんて、もっともっと巨大な星じゃないとできなかった。中性子星って呼ばれるらしいけど、一立方センチの重さが十億トンって云われても全く見当もつかない。だけどそんな星の爆発のおかげで、あたしの中にもこうして赤い血が流れてる。あたしも無数の星屑からできてるんだ。(「ピュア・スキャット」,135-136頁)


その3。柳田邦男『言葉の力、生きる力』(新潮文庫)。
この人の文章を読むのは『犠牲』(文春文庫)以来。
あの本にも書かれていた、次男の自死という痛切な体験を踏まえた「二・五人称の視点」がいい。
星野道夫をとりあげた文章もいい(文庫カバーに星野道夫の写真が使われている)。

そうなんだ。私は気づいた。えもいわれぬ音をとらえているのだ。風の音、雪崩の音、動物の鳴き声、吠え声、足音──そういったはっきり識別できる音はもとより、情景の奥底から伝わってくるささやきとも響きとも感じられる不思議な音が惻々と伝わってくるのだ。
 いままで数々の写真家による様々な動物や自然界の写真に魅せられてきたが、一枚の写真に虜になるほど見入ってしまい、そこに秘められた音まで感じたのは、はじめてだった。
 グスタフ・マーラー交響曲第三番ニ短調を聴くと、マーラー絶対音感以上の霊的な音感で、森や花たちや風や動物たちや小鳥たちのすべてのざわめきや鳴き声はもとより、天使たちの深い愛のささやきや天上の音楽までをも聴き分けていたに違いないと思わざるを得ない。星野氏の場合は目で霊感的にそういう自然界のポリフォニー(多声音楽)なささやき、ざわめき、響きの神秘を聴き取っていたに違いない。私はそう思わないではいられないのだ。(「ガイアの声が聴こえる」,155-156頁)