文覚

素数の音楽』の冒頭に数学者アラン・コンヌと神経生理学者ジャン=ピエール・シャンジューのやりとり(『考える物質』)が紹介されている。
コンヌが「数学的実在は、人間の精神とは独立に存在する」といい、その数学世界の中心には不変の素数列があると言い張るのに対し、シャンジューはいらだちとともに、「それならなぜ空中に“π=3.1416”と金文字で書かれているのをこの目で見ることができないのだ?」と迫る(18頁)。
素数は世界に先立って存在している。
ここでいう「存在している」の意味がうまく説明できないし「世界に先立った素数の存在」(あるいは「無限」の存在でもいい)を実感できているわけではないけれど、この主張はまったく正しいと私は信じている。
数学的プラトニストなのだ、私は。
精確にいうと、数学的プラトニストたることに憧れているのだ。
ペンローズが、ボルヘスの「詩人は発明者である以上に発見者である」を踏まえて「数学については,少なくともより深遠な数学的概念については,他の場合に比べて,玄妙な,外的な存在を信じる根拠はずっと強い,と私は感じないではいられない」(『皇帝の新しい心』111頁)と書いている。
これと似たことを養老孟司が『「私」はなぜ存在するか』で語っていた。
量子論を専攻している人には量子が見え、遺伝子やゲノムの研究者には遺伝子やゲノムが見えるのと同様、数学者にとっては数学的世界が実在する、云々。
 

素数が「実在」している場所は、保坂和志のいう「第三の領域」(フィクション)と関係している(たぶん)。
9月2日の日記に書いた話題の続きになるが、ここにも数学と小説の妖しげな関係がある。
哲学との関係も妖しい。
私は常日頃から小平邦彦さん(『怠け数学者の記』)の「数覚」をもじった「哲覚」という言葉を愛用しているのだが、ここに新たに「文覚」(文覚上人の「もんがく」ではなくて「ぶんかく」)という言葉をでっちあげたい。
数覚は「(数学的)イデア」を、哲覚は「概念」を、そして文覚は「(文字を使って思考する)人物」を、それぞれ「実在」として知覚する。あるいは発見する。
たとえば保坂和志の『小説の自由』は『〈私〉という演算』が「小説」であるのと同じ意味で「小説」であると考えることができる作品なのだが、そこにおいて「文覚」の対象となる「人物」は何かというとそれは概念語なのである。
この作品の主人公に相当するのはおそらく「現前性」だろう。